境界線上の不夜城で待ち合わせ 3
二「……いや、一分程待て」
表面上を触れ合うだけの交わりがあっさりと終わると、オレは重要な問題に直面していた。
「怖気づいたか?」
「違う。黙って待っていろ」
身を離してやると、アテムは不満げに口を曲げて台の縁から降りた。オレは部屋の周囲を見回してから、上着の内側に入れていた携帯電話を取り出した。
この邸宅は全ての部屋に、セキュリティ対策として監視カメラが取り付けてある。海馬家の邸というだけで、不審な輩が潜り込んでもおかしくない。勿論、オレの自室にもカメラはある。
当主であるオレが管理をしているのだが、私用で一時的に切るのも意に反する行為だ。それに、そんな真似をすれば、周囲に悟られるだろう。
ここである必要はない。そう判断し、オレはある場所へ連絡を入れた。
電話口の人間は、こちらが海馬の名を出せば、すぐに支配人に代わり、要求をすべて飲んだ。用件はものの三十秒で済んだのだった。
「すぐに出かける。来い」
「急だな」
たったの一分ですら退屈を持て余していた奴は、慌てたようにして鞄に手を伸ばした。
「荷物はいい、置いて行け。貴様の身ひとつで構わん」
「あ」
手を引けば、バランスを失くした足がよろけてオレの元へ傾いた。肩より下にある頭が、妙にいじらしく思えた。
「どこ行くんだよ」
「町外だ」
「町外……? 何でまた。オレだってお前が何考えてるのか、よく分からないぜ」
そう言いつつも歩を進めれば、奴は大股でついてくる。元来た廊下を行き、玄関口へと着く。待機していた使用人に車の用意をさせ、扉を開かせた。
すぐに門の前に送迎車がつき、運転手が後部座席のドアを開く。先にアテムを乗せ、後からオレが乗り込んだ。
「目的地はナビに送った。急げ」
「はい、かしこまりました」
位置データを端末から車のナビゲーションに送信し、運転手に告げる。すると自動的に運転席と座席に仕切りがせり上がってきた。静かに発車し、窓の景色が流れ始める。
「やっぱり海馬は変だぜ」
頬杖をつきながら、窓へ向いたままで奴は愚痴っぽく漏らした。
「興が削がれたか」
「ああ。せっかく気分が乗ってきた所だったのに」
「焦っているのは貴様の方じゃないのか?」
不貞腐れた頬を笑ってやると、奴はオレをちらりと一瞥してまた外へと視線を集中させた。
「十時過ぎ、か……。文字通り、一日中付き合って貰うぞ。泣き事を言ってもオレは聞かんからな」
「そいつはどうかな……?」
足を組み直し、アテムは不適に笑んでいた。見慣れた笑い方と仕草、恐れも不安も無く、圧倒的強者の佇まいがそこにはあった。
三十分程経った頃。運転席から到着の合図が送られた。車は緩やかに停止し、後に扉が開かれる。降りた場所には、塔のように高いビルが聳え立っていた。
「ここ、どこだ」
「関道、童実野の隣だ。行くぞ」
「う、うん」
奴はビルの天辺を見上げるように首を曲げて歩いていた。五十階建ての宿泊施設は、関道のシンボルタワーであり、三つの柱から成り立っている。童実野町からもこのビルは見つけやすく、目立つ造りをしている。
「お待ちしておりました、海馬さま」
入り口では支配人と、多くの従業員が出迎える。グレーの頭髪をした支配人が深々とお辞儀をし、挨拶を述べる。
「今回は仕事で来たわけじゃない。そのような仰々しい挨拶は不要だ。すぐに部屋へ案内しろ」
「はい。ではこちらへ……」
側立つホテルマンからキーを手渡され、支配人は早足でエレベーターへ導く。
「お部屋は最上階の更に上にございます特別室をご用意しております。何かご用件がありましたら、お呼び付け下さい」
「ああ」
高速エレベーターは、最上階へ直行する。途中の階には止まらない専用のものらしい。
「ここからも海が見えるんだな」
ガラス張りになっているエレベーターに手をついて、アテムは呟いた。童実野は海に近い町なので、いつも潮風が感じられる。湾内の反対側に位置している関道もまた海に面している。
「最上階の上だって言ってたけど、これ五十階に止まるみたいだぜ」
現在地を示すデジタル画面が、四十階を示した。そろそろ着くだろう。
「着けば分かる」
「海馬、ここに来たことあるのか?」
「会社が世話になっているからな。だが宿泊には使ったことはない。最上階はオレも初めてだ」
「あ、五十階だぜ」
到着すると扉は自動的に開き、先にアテムが降りた。床はカーペット敷きになっている。フロアに足を踏み入れたアテムは、小さく驚嘆の声をあげた。
「海馬さま、ご案内させて頂きます」
待ち構えていたのは、男女二人組の案内人だった。声をかけてきた若い男が、ゆっくりと顔を上げる。続けて隣の女も上げた。
「こちらの最上フロアは一般には公開されておりません特別なフロアとなっております。この階から上はお客様とわたくし共以外はおりませんので、どうぞお気兼ねなくごゆっくりとお過ごし下さい」
簡単な説明をしながら、彼らはフロアの先を行き、部屋への道を誘導していく。
「あちらの階段がお部屋に通じております。海馬さまがお持ちになっているキーで、フロア扉の施錠が出来ますので、ご用件が無ければ何人たりともお部屋にはお邪魔致しません」
行き止まりに着くとそこには大階段があり、先に硝子扉がある。タッチパネルがついており、そこにキーをかざす仕組みになっているようだ。
「ご苦労。下がっていい」
「はい。では、失礼致します」
アテムは話が終わったと確認し、オレに視線を投げてきた。微かに緩んだ口元が、くっと持ち上がる。湧き出てくる衝動を抑え込みながら、オレは先を歩いた。
キーをかざすと、硝子の自動扉が認証をし、ほどなくして両に開いた。通り過ぎた後に、電子音がし、自動的に施錠されたことを知らせた。
「薄暗いな」
部屋に至るまでの通路には窓がなく、足元を照らすライトが数か所あるだけだ。先のフロアの現代的なデザインとは違い、中世を思わせる造りの扉がひとつ現れる。
取っ手の下部にキーを差し込むと、ドアノブが動いた。
「ここだ」
部屋は、外の光を全体に取り込むような大窓があり、海がよく見えた。
「反対側の童実野町が見えるぜ。あれ、海馬コーポレーションだな」
アテムが指した方向には、本社のビルがある。街の雑多さの中に白さが目立っている。
「こうして海を挟めば、近く感じるな」
アテムは窓に手をつき、その景色を楽しんでいる。真後ろに立ち、奴の身を囲うようにして、オレも硝子に手をついた。
「ん……」
「何だ?」
子どものように無邪気に喜んでいたのかと思えば、奴は妙に身じろぎをする。
「こんな窓じゃ……外から、全部見えるだろ」
「ここを何階だと思ってる。肉眼では見えるわけないだろう」
「見ようと思えば、いくらだって方法はあるんじゃないか?」
「……見たいやつには見せておけばよかろう」
「嫌だぜ、そんなの!」
囲っていたオレの腕を退けて、奴は部屋の奥へと進んだ。途中にあるドアを開けて中を確認しながら進む。
「海馬、ここ風呂だぜ」
「ああ」
開けっ放しにする扉を閉め、後に続いた。その間に電話の電源を切り、オレは上着を長椅子に放り投げた。
「ここは……なんだ? でかいスクリーンがある」
「会議室だろう」
「……何に使うんだ?」
「さあな」
サイズの合っていない部屋履きを使っている奴は、時折覚束ない足取りになる。
「あ」
辿り着いた先にあったのは、一番広い寝室だった。中央に置かれた寝台のシーツは皺ひとつなく完璧にメイキングされている。
「広いな。三、四人……いや、もっと寝れるかもな?」
キングサイズのベッドを指して、冗談を飛ばすので、オレは奴に首を振って否定してやった。
「二人用だ」
「う……わっ」
細い肩口を手で軽く押してやるだけで、その身は寝具の上に落ちた。深く沈み込む身体を見下ろしながら、オレはシャツのカフスボタンを外した。
「口説く手間すら惜しいのか、海馬」
「ふん、このオレに甘い台詞を囁けとでも?」
「やり方がスマートじゃないぜ……」
起き上がった奴は、室内履きを脱ぎ捨てて、ベッド下に落とした。そして、寝台に足を乗り上げると、その場に座り直して、挑発するように指を自らへ向ける。
「教えてやるよ」
近づいたオレの襟元をアテムが捕えると、そのまま寝台に倒され、今度は反対に押し倒されていた。
「な……っ!?」
「落とし方」
両手をオレの肩に押さえ込み、口元を歪めた奴は、愉しげな仕草で頭をオレの顔の横に下ろしてくる。
「欲しい、って……言ってみな」
「……ッ」
耳に近づけられた奴の唇は、喋る動きすらも感じられるくらいの距離だった。小ぶりな奴の唇が側にある。舌が蠢いている音も聞こえてきそうだ。
「海馬」
「……く」
だが、決して奴は触れてはこない。肩にあった手は離れ、シーツの上に置かれている。両ひざを立てている身は、体温が分かるほどに近づいていても、ほんの少しの距離感を保っている。
名が囁かれる。あまりに甘く、優しい声色は、オレを煽るに十分過ぎた。
「……ッアテ……」
「言いな、……言えよ、海馬」
心地の良い声が、遠退く。唇は耳元を離れ、奴の顔はオレの正面に戻った。寝室のカーテンは閉め切られていて、それでも、ほどよく日中の光を差し込んでいる。奴の前髪が垂れ、顔に影を作っていた。
「何だ、その……だらしのない顔は……ッ」
「貴様もだぜ、海馬」
紅潮し始めている奴の肌が、薄明りの中でも分かる。興奮しているのは同じなのではないか。滲んだ額の汗が奴の我慢をオレに伝える。
「言わないなら、ずっとこのままだ」
「……っ。オレは欲しいものは、己の手で掴みとる……貴様とて例外ではない。オレが奪ってやる」
脱げかけていた奴の上着に手をかけ、無理やりにはぎ取ると、アテムはため息をついていた。
「欲しがるなら、与えてやるのに……可愛くない奴」
「施しなぞ要らん」
「やはり本質が分かってないぜ。どちらかが一方的に、じゃないと言っただろう? オレ達は、それぞれ自分自身を与え合うんだ」
アテムはまるで説教をするかのような、情事に似つかわしくない口調となっていた。オレは、手にした奴の上着を寝台の端に投げた。
「全部、終わる頃には分かる」
「吠え面をかくのは貴様だ」
喰うのがオレで、喰われるのは貴様だということを、その身を以て知れ。その肌を、体を、体内の奥の奥まで、侵し尽くしてやろうとしているのは、目の前にいるオレなのだ。
余裕に満ちたその表情も瞳も、すぐに熱に浮かされた敗者となる。実に見物だな。