解放区 1
海馬コーポレーション最上階、ワンフロアは全て社長室と表記されている。その階だけで日常生活が送れるほどに設備は整っており、キッチン、バス、トイレ、ベッドルームまで完備されているらしい。あくまで社内の噂でしかないのは、誰もそのフロアの実態を目にしていないからだ。
確かに、退屈はしないし、不便ではない、と遊戯は思っていた。
呼び出されてから早二時間が経とうとしているにも関わらず、未だに海馬は作業に集中している。
眼鏡式の拡大鏡をつけている海馬は、眉間に溝が出来てしまいそうなほどに皺を寄せて目を凝らしている。また何やら新商品の研究を行っているのだろう。遊戯は、名も知らぬ工具を手に作業に没頭している海馬の顔を観察した。
――あーあ、せっかくの“オトコマエ”が形無しだな。
ふいに笑いが零れる。人前に出る姿の海馬は、髪や服装に乱れがなく、引き締まった顔つきであり、常に居丈高な態度である。
それがきっと、一般人が知る海馬瀬人としてのパブリックイメージであると思う。だが、彼も人間であるからには、こうして他者には曝け出せないような恰好をすることもある。
気を許されているのだと思えば、妙に浮ついた感情に沸いてしまう。故に、遊戯の口元は緩むのだった。
「フフ」
手にしていた雑誌で口元を隠して笑い声を上げてしまう。どうせ聞こえる筈もないと油断していた。
「どうした、一人で笑ったりして」
「……何だよ、聞こえたのか?」
「聞こえるに決まっているだろう。ここには貴様とオレしか居ないんだからな」
ここは数ある社長室の中で、角に位置する部屋だ。童実野町が一望できる大窓には、夜景が広がっている。街の明かりは眩しい。夜の七時を回った頃だ。繁華街は賑やかな時間だろう。
海馬は拡大鏡を外すと、耳の裏と眉間を揉んだ。目を使い過ぎたのだろう。どうやら肩も凝ったらしく、片腕を回している。
「思い出し笑いをする人間はな」
首元まで詰まった服装は、見ているだけで暑苦しいと遊戯は常々考えている。極端に露出を厭う海馬は、季節を問わず首から足元まで隠れる服装をしている。そんな海馬が、首元まで上げられていたジッパーを鎖骨のあたりまで下げた。普段見えない肌の色は、蒼さすら感じるくらいに白い。
「昔からむっつりスケベだと相場が決まっている」
「何だよ、それ」
「知らんのか」
遊戯が腰かけていた来客用の二人掛けのソファーに、海馬はどっかりと座り込んだ。長い脚をひけらかすように放りだし、海馬は座ったままで背伸びをした。腰や背骨が固まっていたのだろう。ぼき、ばき、と鳴る音が響く。
「要は……まあ、いやらしい性格ということだ」
「オレ、思い出し笑いなんてしてないぜ」
「笑っていただろうが」
「海馬を見て笑ったんだ」
遊戯は雑誌を傍らに置き、向き直った。鼻筋に眼鏡の跡がついているのを見つけて、指先で撫でてやった。
「そんなにオレの顔が愉快だったか」
「ハハ、違うぜ。何て……言うんだっけな……こういう気持ちは」
顔を撫でる手を取り、海馬はその手のひらに唇を寄せる。そうするだけで心が落ち着くのだから不思議だ。遊戯はそんな海馬の好きにさせたまま話を続ける。
「優越感?」
「……誰に対してだ」
「なら選民思考……いや、ちょっと違うか……うーん」
海馬は遊戯の左手にばかり構って、指の一本一本に口付けていった。遊戯は改めて日本語の難しさを実感していた。言葉は難解だ。時に、自らの思いすらも迷わせる。
「海馬が他の誰かに見せられないような自分を、オレの前では何ともないように見せてくれるのが、少し嬉しかったんだぜ」
「ふうん……」
指から唇を離すと、海馬は力を抜き遊戯の肩に頭を寄せた。
「そんなことが嬉しいのか、貴様は」
「ああ」
「変わったヤツだな」
「そうかもな」
遊戯は凭れ掛かる海馬をそのままに、腕を組んだ。すると、また笑みの音が漏れた。
このようにして誤魔化すのは、海馬が照れている証なのだと、いつから気づけるようになったのだろう。わざとらしく側に寄り表情を悟られまいとするのも、頑なに唇を真一文字にするのも。
あえて、冷たく人を貶すのも、感情表現が下手な海馬なりのやり方なのだと分かるようになってからは、ただ可笑しく、ただ愛おしいだけだった。
「やめろ」
「ん?」
暫くその状態を放っておいた後に、遊戯は片手で海馬の頭を撫でていた。愛玩動物にするような仕草は、どうやら気に召さなかったらしい。
「何だ、寝てたのかと思ってたぜ」
「寝てなどいない。小休止だ」
立ち上がろうとした海馬であったが、足元がぐらつき、またソファーの上に尻をついた。自覚はないが、肉体は疲労しているようだ。
「疲れてるんじゃないのか」
「そんなことは無い」
遊戯は体を曲げ、海馬を覗き込む。自然と上目使いになった瞳が、苛立たしい程に穏やかな色合いをしていた。
「そうだなあ……」
海馬の足の間に入り、遊戯は背もたれを囲うようにして両手をついた。真正面から海馬を捕え、いつもとは逆の視線を交わす。海馬は自然と見上げるようになり、顎を上向かせる。
「ほら」
上にタンクトップだけ着ている遊戯は、躊躇いもなく海馬の顔を胸にいざなった。
逃げ場が無いにも関わらず、思わず海馬は後ずさる。――退路は無いのだが、一応のポーズとして体を後ろへやった。――
「なっ、何をする……ッ」
「オレだって色々勉強してるんだぜ」
「は……?」
「相棒や城之内くんが持ってる本とか、そういうのも社会勉強の一環になるんだろ?」
遊戯が言わんとしていることの意味が理解できずに、海馬は目の前のぬくもりに抗うので精一杯だった。
「疲れてる男には、こうするのがいいんだって……」
ふにりとした遊戯の胸元に顔面が押し付けられる。海馬は行き場のない手を、空に彷徨わせていた。戯れに肌を触れ合わせてはいても、遊戯からの積極的な行いには海馬は慣れていない。戸惑ってしまうのだ。
「い、一体なんの……本を……」
呼吸を繰り返す内に海馬は、異様な高揚感に気付いた。鼻先にあてられているのは胸元。そして、生身の両腕に囲われている。四方から漂う香りに、脳内が侵されていく。
「う……っ」
「ン?」
観念したように海馬の両腕が遊戯の細腰に回った。そして鼻先を平らな胸に押し付ける。そして深く息を繰り返した。甘いような匂いがする。ヒトの体臭は苦手だった筈だ。だが他人のものとは違う。いつまでも嗅いでいたいと体が本能で知る。
「海馬?」
遊戯は両腕をやんわりと海馬の首へ回して、軽く抱き寄せた。腰を抱く手に力が入る。ぎゅっと抱きしめられ、縋りつかれるような形になっていた。犬や猫が主人を確かめるが如く、鼻先を押し当て何度も匂いを嗅ぐ。その行動にとてもよく似ていた。
「はあ……っ」
狂ったかと自身を疑ってしまうくらいに、海馬は酔っていた。きっと疲労の所為による錯覚なのだと思い込もうとしたが、何か理性的に思考しようとする前に遊戯の匂いに脳が支配された。
馬鹿の一つ覚えのように、海馬は遊戯の肌の香りを味わう。甘い、清らな、異国的な、安心感を覚える……懐かしいような香りがしている。吸いこんでも吸い込んでも飽き足らない。
「なあ、……海馬?」
あまりに夢中になりすぎて、海馬は遊戯の呼びかけも無視していた。離れがたく、離し難い。まだだ、もっとだ。物足りない。満足などするものか。海馬は遊戯のタンクトップの布地を、無意識に噛んでいた。香りを体に覚え込ませたくなっていた。
「息、荒いぜ? 調子悪いんじゃないのか」
そっと肩を押して、遊戯は海馬を気遣うように問いかける。呼吸が乱れているのは、匂いを嗅いで興奮していたからだ……とはいくら理性を手放している海馬でも口に出来なかった。とんだ変態ではないか。それくらいは海馬にも分別がついた。
「いや……これは」
「顔も赤いな」
さらりとした感触の遊戯の手の甲が、海馬の汗ばむ頬を撫ぜた。その肌の触れ合った瞬間に、海馬は自分が汗をかいているのだとようやく知った。もう、体中のどこもかしこも熱に浮かされてしまっているのだ。下腹部は痛みを覚える。
「悪い……何か、オレ、間違えたのか?」
「いいや。間違っては、いないぞ」
遊戯は勘違いをして、あっさりと退いてしまった。そのまま膝の上から降りようとしてしまったので、阻止するべく、海馬は遊戯の腰を掴んだ。両の手が容易く回ってしまう細さは、恐怖すらある。
「うわッ!」
「……貴様も、充分赤いな」
「え……? オレも?」
遊戯は膝を折り、海馬の腿の上に腰を下ろされた。尻の感触がダイレクトに海馬の脚に伝わる。薄い胸同様に、肉付きが良いとは言えないが、柔い感触はする。質が良いのだろう。
「だって……今の、結構恥ずかしかったんだからな」
目を逸らして、俯き加減に呟く。そのいじらしい仕草は、海馬の凶暴性を煽るには事足りていた。しかし、衝動をぐっと堪え、海馬は拳を握った。
「捲っていいか……?」
海馬の噛み跡がついたタンクトップを指して告げると、遊戯は一瞬狼狽えたように目を泳がせたが、ややあって指先で服の裾を摘まんだ。
「こ、こうか……?」
おずおずと上げられていく様は、まるで舞台の幕が上がるようだった。黒い服に映える健康的な肌の色が、少しずつ見えてくる。心音が耳の奥で響いて、拍手のようだった。海馬は息を呑み見守った。
腰を持つ手がひくついた。生の肌に触れたいという欲望が勝手に体を動かしかける。
「海馬……何か、言えよ……」
羞恥に耐えられないという遊戯は、部屋のあちこちに視線をやり、指先を震わせる。沈黙はひどく苦痛で、海馬からの返答を待ち望む。
「ヘソだ」
胸下あたりまでタンクトップが捲られ、腹が露わになった。腰の周囲は、手に持った細さに見合うウエストであり、きゅっと引き締まっている。内臓がつまっているのかと尋ねられるだろう薄い腹は、すべすべとしてつるりとした肌である。
その滑らかな腹に、形の良い小さな臍が真ん中に位置し、綺麗な丸が描かれていた。
「ひっ……! なっ、何ッ……!」
海馬は許しを得るよりも先に行動してしまっていた。人差し指を窪みの中に差し入れていたのだ。
「や、やめ……こらっ、指ッ……入れるな……ッ!」
くりくりと擽ってやるように、人差し指を小刻みに動かすと、面白いくらいに遊戯は身を振る。穴というものには男は本能的に、突っ込みたいと思ってしまう……ものだろうか。
「ひゃ……ッう……んんッ! 海馬ッ、だ、ダメ……だ……ッ!」
人差し指を抜き、次に親指で押すようにして臍の周りを弄った。笑い声のような嬌声を上げて、遊戯は身体を捩らせた。長い前髪の先が左右に振られる。
「あは……ッ! ヤだ……ってば!」
拒む手が海馬の肩口を強く押し、その反動で上半身が後ろへ倒れ込みそうになる。海馬は咄嗟に遊戯の背を支え持った。
「……っ、と……。あまり暴れるな」
「今のは、海馬が悪い!」
自分を支えてくれている腕を、懲らしめるように遊戯は軽く叩く。そして煩わしがって、海馬の腕を振りほどいた。
「臍を目の前にしたら、誰だってそうする」
「しないぜ!」
いくら世間知らずな遊戯とは言え、騙されるわけがなかった。そこまで疎くはない。小馬鹿にし過ぎだ。
「……なら訂正しよう。“貴様の臍を見たら、オレはそうする”」
あまりにも真摯に言われたので、遊戯は言い返せなかった。これからは軽率に海馬に臍は見せてはいけないと、意を固めるのだった。