オアシス 3
タイムオーバー タイムオーバー タイムオーバー止められていた時が加速し、現代の現実は粒子となり、帰還する。去る瞬間は、いつだって唐突で、別れの言葉すらままならない。
海馬が次に目を開けた瞬間には、「DANGER」の文字が点滅する画面だった。赤い文字は画面上で乱舞し、海馬の覚醒を促す。
イヤホンから、人々の声が聞こえてくる。「瀬人様!」「兄さま!」「生存確認、生存確認! 医療班を呼べ!」
「そうか……オレは……生きているんだな……」
海馬は体内に残った力を確かめるように、指に込めた。間接のひとつひとつが動かせる、と身体と頭が理解する。
骨が軋む音が脳内に響く。機器に触れているどこもかしこも痛む。
「……ああ、痛いな」
わけもなく笑みが零れた。
「クク……フフ……ハハハ……!」
笑い声を上げれば、筋肉が収縮して、腹が痛んだ。それでも海馬は大声を上げて笑うばかりだった。ポッドに到着した医療チームが、その様子に驚愕していたが、正気だと海馬が告げれば、彼らはすぐに病院に連絡を取った。
「兄さま、オレはあっちの世界に行くなとは言わないけど、体調管理だけは、しっかりしておいてくれよな」
特別個室は、病室らしからぬ構造をしていて、室内には豪華な家具も揃っている。
弟の叱りを受けながら、海馬は微笑んだ。原因は、単なる「肉体疲労」だと医師に告げられ、モクバが脱力したのは数時間前のことだった。
海馬が目を覚ますまではそばにいると、健気な弟の姿を医師たちに見せたが、開口一番の言葉はそれだった。
点滴を打たれながら、海馬は携帯情報端末に手を伸ばそうとした。腕を動かせるまでになっていた。あの時までは、首から下は何も動かせなかったのだから、海馬自身は随分回復したという実感がある。
「あっ、ダメだって!」
それを取り上げられ、海馬は呆然とした。まるで赤子のような扱いだ。目が丸くなる。
「しばらく休養を取れって言われたばかりじゃないか! 仕事も、あとデュエルもお休みだぜ、兄さま!」
「時間くらい調べてもいいだろう」
「時計なら、そこにあるだろ! ちょっとでも目を離すと兄さまは仕事や研究に没頭するんだから」
モクバが指した先には、白いシンプルなアナログ時計がかかっている。時刻は午後二時半を過ぎたあたりだ。あまりの勢いに海馬は腕を布団の中へ仕舞い、弟の意思に従った。
「何もしないのは、それはそれで辛いものがあるな」
「うぅ……まあそれは分かるけど……。あ、そうだ。兄さま、医者が何か食べてもいいって言ってたから、欲しいものがあれば買ってくるぜ」
モクバは席を立ち、掛けていたジャケットを着直した。もうすっかり社会人の姿なのだな、と海馬は頼もしく思う。
「それとも兄さま、お腹すいてない?」
「そうだな、なら……」
海馬はベッドサイドにあるメモ帳をとり、二、三のリストを書いて渡した。
「よし、じゃあ行ってくるぜ! 待ってて、兄さま」
意気揚々と病室を飛び出したものの、メモを受け取ったモクバは、首を捻っていた。
「うーん、病院内の売店にあるか分かんないな。磯野、この辺にスーパーかコンビニってあるかな」
待合室で磯野と落ち合い、モクバは下に降りるためにエレベーターのボタンを押した。
磯野はモクバに尋ねられ、しばらく思案していた。
「確かあちらの……駅方面に大型のマーケットがありました」
「歩いて行けるかな」
海馬の病室は階の中ほどにあり、一般患者は立ち入れないフロアとなっている。エレベーターは外が眺められるようガラス張りになっており、磯野は外を指してモクバに道を教える。
「そんなに遠くはありませんが、店に行くのなら車をお出ししますよ」
「ううん。いいよ。歩いて行こうぜ」
モクバは磯野の腕を引いて、病院を出て行った。海馬家が世話になっている病院は都市からは離れた位置にあり、静養にはふさわしい自然に囲まれた場所にある。その大病院以外、この街には何もないと言ってもいいほどだ。
山々や草原の中に、ぽっかりと土地が拓かれ、整備された一本道の道路がある。街の中心部にある駅の周囲には、住宅地や店があるのだが、そこから離れれば、異常なほどに何も無い。
その道を、モクバと磯野は並んで歩いた。目の前には駅周辺の賑やかさがある。遠くもないが近くもないだろう。そんな道を歩かせるのが磯野は忍びなく思う。
「モクバ様、やはり車を……」
「いいってば。これくらい歩くぜ」
遮るように言われてしまえば、磯野は従うしかない。モクバはちっとも苦ではなかった。
十数分ほど歩いただろうか。駅前に辿り着き、モクバはスーパーマーケットを見つけると、楽しそうに入って行った。
「モクバ様、何だかはしゃいでいるようですね」
磯野はつい、言ってしまった。振り返ったモクバが、歯を見せて笑う。
「磯野は嬉しくないのか? 兄さまが帰ってきたんだぜ」
「嬉しいです。嬉しいに決まってます」
即答だった。モクバが頷く。そして、先ほどの一枚のメモを手にして、マーケットの中を探す。
「オレが兄さまに出来ることって、大したことじゃないって分かってるけど、その大したことないのが出来るのが、オレには嬉しいんだ」
「……瀬人様は何でもご自分でなさりますからね」
「こんな時くらいじゃなきゃ、兄さまの買い物なんて出来ないだろ?」
モクバはメモを片手に棚のひとつひとつを見て歩く。その後ろにつきながら、磯野は癖っ毛の揺れる黒髪を見下ろしていた。
すれ違う人々は、モクバと磯野の格好にただならぬ気配を感じ取り、遠巻きにする。――庶民が使うようなスーパーマーケットに明らかに堅気ではない人間がいたら、誰だってそうするだろう――
「あ、あったあった。これだ。うーん、メーカーはどれでもいいのかなあ」
「随分種類がありますね……これだけあったら迷ってしまいますね」
「じゃあ、これにしよう!」
「百花……ワイルドフラワー……」
モクバが手に取った瓶の銘柄を磯野は読み上げた。
「百花なら、いっぱいってことだろ? あとワイルドフラワーって強そうだし」
「ハハ……、野生の花ですね。確かに、強いものです」
「これなら元気になれそうな気がする」
「ええ、そうですね。あとは、何を頼まれましたか?」
「ん? ええと、あとは水と……パン……」
「パン、ですか」
「うん。パン」
「……何パンでしょうか」
「パンしか書いてない」
「……困りましたね」
「まあ、色々買っておけばいいだろ! よし、あの棚の全部買おうぜ」
「えっ……」
それを持ち帰るのは自分の役目なのだと知っている磯野は、思わず感嘆詞が飛び出る。
「平気、平気! パンなら軽い軽い!」
買い物かごを取りに行くモクバは磯野を置いて行ってしまった。ポケットに仕舞われていたメモが床に落ち、磯野は拾い上げた。
メモには「水、蜂蜜、パン」と、海馬の字で書かれている。
終