オアシス 2

「う……」
朝日の光が寝所にも届けられる頃。太陽は早朝にも関わらず、容赦なく大地を照り付ける。
重くなった体は、指一本でさえ動かすことが出来ず、脳が必死に命令の電気信号を送っていても、何一ついう事をきかない。
「……うあ!?」
声だけは自由に発せられる海馬は、思わず叫んでいた。
体が重くて当たり前だった。胸の上に、見慣れた髪型があるからだ。顔は自分の胸板に埋められている。だがこの肌色、この感触、間違えようもない。
「な、何なんだ……それにここは……?」
わずかに動く首を曲げ、海馬は視界で捕らえられるものを確かめた。ここが王宮であることは分かる。だが一度たりとも立ち入ったことのない場所だった。
紗幕のような布が天井から寝台へ吊るされている。
「……寝台……寝所……? オレは……寝ていたのか?」
自覚のないままに意識を手放した海馬は、記憶が途切れた状態からの覚醒であり、驚くのも無理もない。あたりを見回し、五感を使い調べ尽くした。
「んん……む」
胸の上でもぞもぞと身じろぐ少年も、ややあって起き出したようだ。海馬は妙に動悸がした。
「……ああ……」
アテムは紫紺の瞳を瞬かせて、納得したように海馬を眺めた。
「生きてるな」
そして、両手で海馬の頬に触れ、頷く。海馬はすぐにでも離れたかったが、体の自由は無かった。好きにさせるしかない。あまりにも近い。近すぎるのだ。
「無茶しやがって」
アテムはそのまま海馬の頬を引っ張ってやった。左右に引いた頬は海馬の輪郭を不細工にする。
「な、何をっ! やめろ!」
「クク、罰ゲームだぜ!」
間の抜けた顔になった海馬をひとしきり笑ってやると、アテムは安堵している自分に内心驚いていた。目を開けて、声を聞くまで、生の実感は訪れないものだった。
喚いている海馬に懐かしさすら覚えた。良かった、と心から思えた。

「さあ、もう服を着ていいか」
アテムが衾から半裸の身を出すと、海馬は自身と相手の姿を目にして絶句した。
流石に互いの下着はつけられているとは言え、何故このような状況になったのかが海馬には想像がつかなかった。
アテムの細い背を見送りながら、思考を巡らせる。あの肌に先ほどまで触れていたのだと思うと、やはり動悸がした。眩いばかりに水をはじく若い肌は、太陽の恵みを受けた色をしていて、艶やかだった。
用意されていた前開きの長衣を纏い、アテムは寝台の端へ腰を掛ける。そして海馬の顔の覗き込む。
「どうした? 起きないのか?」
「……起きれるものなら、とっくにそうしている!」
「ふうん、口だけは動くようだな」
アテムは枕や衾を海馬の上半身側に集めて体を起こしてやった。居心地の悪そうな表情をしている海馬に、アテムは優しい声で話した。
「水、飲むか? 喉が渇いただろう」
器に入れられた水を差し出すが、海馬は無言だった。手もまともに動かせないのだ。受け取れるはずがない。
「しょうがないな……じっとしてろよ」
アテムは、寝台に身を乗り上げて、海馬の目の前に座った。水の入った器を片手にし、もう片方の手は海馬の顎を持った。
「口を開けな、海馬」
言われるがままに海馬は薄く唇を開き、器が傾けられるのを待った。一口、二口と水が注がれる。唇が湿ると、途端に喉が渇きを訴えた。ごくり、ごくりと喉を鳴らして水を飲み干していく。
アテムは海馬の口元や首のあたりを見ていた。喉仏が上下している。ぼんやりとしていたら、いつの間にか器は空になっていた。
「……もう無いのか?」
「一気に飲んだら体に毒だぜ。焦るなよ」
アテムは立ち上がり、水差しから器へ水を注いだ。思えば、自分も喉が渇いていたのだった。アテムは海馬の使った器からそのまま水を飲んだ。背中に海馬の視線を感じている。
一杯の水をまた器へ入れて、海馬の元へと戻った。この男は、ほとんど瞬きをしないのだと気付いたのはその時だった。だからいつも、絡みつくような視線をまとわりつかせるのだ。
「ゆっくり、な」
アテムは海馬の頭を支え、口元に器をつけた。一気に流れていかないように器を傾ける。海馬は急かすように水を飲むのだった。余程、渇いていたのだろう。
「あ……」
口元から零れた水が、海馬の首筋へと伝い、胸元を濡らした。構わずに海馬は水を飲んでいる。濡れた肌にアテムは視線を落とした。
「もう、いい」
「ん? ああ……」
器の水は無くなると、海馬は僅かに動かせる首を後ろにして言った。アテムは袖口で海馬の濡れた唇や、首、胸元を拭ってやった。
「おい……」
「何だ?」
海馬は頬と目元を引きつらせてアテムの手を阻もうとする。しかし、アテムは何の疑問も持たずに拭き終えてしまった。
「汚れる、だろうが」
「ああ、これがか? 別にいい」
アテムは袖を広げたが、特に気にする素振りも見せなかった。
水を飲ませ終えてしまうと、何をすべきか分からずに、アテムはしばらくじっとして海馬の顔を見つめていた。今なら「話」が出来るだろうか。アテムは考え込んだ後に、口を開こうとした。
「海……」
しかし、先にその静寂を破ったのは、情けない内臓の蠕動音だった。
「……へえ」
アテムは海馬の腹を見下ろした。音の名残が二人の耳にも届いていた。
「これは生理現象だ」
もっともらしい言い訳をするのが海馬らしくて、アテムは遠慮なく笑ってやった。何だか馬鹿馬鹿しかった。会話よりもすべきことがあると分かった。
「そうだな。オレも腹は減ってるよ。何か持ってこさせよう。待ってな、海馬」
軽い身のこなしで寝台から降りると、アテムはどこか機嫌のよい態度で寝所を出て行った。
「……フン」
海馬は誰もいなくなった寝台の上で、いつものように息を漏らした。腕が組めないのがもどかしかった。


王が下人らの働き場へやってくるのはあり得ない行いだった。女官長が目撃していたら、卒倒していたかもしれない。
「ファ、ファラオ……! このような場所へ、どうして!」
「食事をしたいんだ。何か用意できるか?」
「そ、それは勿論……ッ!」
台所を取り仕切る男の召使いは、急いで他の者に命じた。
「わ、わたくしもですが、ファラオがこのような場所へ参られてはその、困ります……皆が驚きます故。侍女に命じて頂ければ、いつでも運びに行かせますから」
男は王の前でどもりながらもそう話した。だがアテムには、自分が行動せねばならない理由があった。
「それは悪かったな。……でも、アイツは王であるオレがそういう振る舞いをするのが好きじゃないらしい。それに、人を使って世話をさせていると知れば、きっと腹を立てるだろうからな」
「は、はあ……」
男は汗を拭きながらおどおどと対応していた。周りの召使いたちも恐縮しきっている。すぐに侍女らが、用意された食事を盆に乗せて運び出してきた。
「邪魔をしたな」
先頭の侍女の盆を受け取ると、アテムは寝所へと戻って行った。
「あ、王……」
侍女が止める手を物ともせず、振り返らずに去っていく。
「ファラオは、一体どうしたというのでしょう」
「さ、さあ……寝所にもわたしどもは近づいてはなりませぬと命じられておりますから」
召使いたちは、ひそひそと王の動向について話したが、誰も詳しい訳を知るものはいなかった。彼は歴代の王らしからぬ「王」であった。何事も自ら行動をする少年だった。

アテムの持っている盆には、果物や木の実が数種類とパンがある。それと硝子の瓶には蜂蜜が入っている。
「あとは海馬が食べるかどうか、か」
海馬という少年が食事していた姿に全く覚えがない。思い返せば、何かを飲むという行動自体、初めて目にしたものだ。
「人間らしい行動と無縁なヤツだったからな」
アテムは、童実野町の仲間を思い出していた。よく笑い、泣き、時に怒り、共に食事をし、遊んだ彼らのことだ。城之内のような生命力あふれる少年が陽ならば、海馬は真逆の陰だろうか。
「いや、生命力というなら、ヤツは嫌というほど有るよな……」
行儀が悪いのを知りながら、アテムは盆に乗っている木の実を一粒摘まんで口に運んだ。
陽性の力はあるとしても、海馬のものは遊戯や城之内たちとは本質が違っている。深い海から見つけ出した石が、濁りの後に磨かれた宝石の色をしている。

風が通る部屋だった。熱を含んでいるが乾いた風は、心地よく吹き抜ける。外に顔を向けている海馬は、静かに目を閉じていた。
「寝てるのか?」
寝台の傍らに座り、盆を膝に置いた。アテムは海馬の長い前髪を梳いた。
「……遅かったな」
「フフ、待ち草臥れて眠っていたのかと」
「寝ていない」
置いてけぼりをくらった幼子が不貞腐れているようだった。アテムは何の気なしに髪を梳く手を頭頂部へ運び、そのまま二、三度撫でてやった。海馬は訝しげな目をしていた。
「海馬、どれなら食べれそうだ?」
盆を上げ、見やすいようにしてやる。得体の知れないものを品定めするように目玉が左右に動いている。
「赤い実は何だ?」
「柘榴だぜ」
半分に割られた実を手に取り、小さな粒を摘まむ。それをアテムは自らの口へ入れる。
「甘い」
始めは甘酸っぱい味がし、後味は僅かに苦味が広がる。嚥下するのを海馬に見せてやったのだった。
「フン……毒見したつもりか」
「疑い深い性分だろう? 心配なら、全部確かめてやるさ」
アテムは盆に乗った食べ物を海馬の目の前でそれぞれひとくちずつ味見していった。黙ってその姿を見守っている海馬は、やはり瞬きをほとんどしなかった。
「さあ、どうする?」
海馬は視線だけで果実を選んだ。察したアテムは、実を指で取り出して海馬の口元へ運んでやる。瑞々しい実が唇の表面に触れると、海馬は口を開ける。
「……酸っぱいな」
「そりゃあ、現代の果物を比べたら、そうかもしれないな」
飲み込んだのを確認すると、アテムは胸を撫で下ろした。食べてくれた。その事実に安心する。
「構わない。続けろ」
「もっと食べたいって、素直に言えよな」
海馬らしい物言いにアテムは苦笑いをして、更に実をほぐして食べさせてやった。時に触れる唇の柔らかさに、指先は緊張した。
果物の次は木の実を食べさせ、その後はパンだったのだが、ひとくち食べた後で海馬は「もういい」と言ってしまった。どうやら口に合わなかったらしい。
口内が不快なのだろうと思い、アテムは水を飲ませてやった。慣れたようにアテムから水を飲む姿に、不思議とある感情が育った。しかし、それを言葉にするにはまだ未熟だった。
「それは何だ?」
水を飲み終えた海馬は、盆の端に乗っている硝子瓶を目で示す。
「蜂蜜だぜ。栄養をとるにはこれが良いんだとさ」
瓶の蓋を開け、アテムは指先に蜜を一滴垂らした。そして舌先で舐めとる。黄金の輝きは、王への献上品の証だ。
「贅沢な味がするぜ」
微量でも濃い甘さが口の中に広がる。花の香りが顔の周りに漂った。
「甘いものは好かん」
アテムから顔を背けるように海馬は首の角度を変える。咥えていた指先から唇を離すと、ちゅ、と水音が立った。
「海馬、貴様は病人なんだぜ。体力回復のためにも、ちょっとだけでも口にしな」
指先で掬い取った蜂蜜をアテムは強引に海馬の唇につける。抵抗して閉じた唇の間に、指の腹が割り込む。
「ン……く……ッ」
海馬は嫌がったが動かせるのは首から上だけだったので、得意の力も発揮できない。無力な様が滑稽なのだが、やけに可愛らしくも思えた。
「ほら、こぼすなよ」
指の股へ垂れる蜜を指摘して、アテムは手を動かして海馬の唇へ流してやる。頑なに閉じていた口は、やがて諦めるようにゆるゆると開き、舌が伸びた。
「……あ」
敏感な指先の神経が海馬の舌の柔さと動きに集中した。蜜の乗った皮膚を舌先がちろちろと舐めていく。湿った唇の谷間に指が挟まれた。
人差し指を食まれ、伸びた舌が指股についた蜜を舐める。
「ン……っ!」
海馬と目が合ったアテムは、居た堪れなくなり俯いた。舌の感触に肌が粟立つ。空いた手は敷布を握りしめて、膝をすり合わせた。
「海馬……もう、無い……っ」
「無い?」
「もう、蜂蜜……無いだろ……」
「そうか? 貴様の指は十分甘いぞ」
咥え込まれていた人差し指の爪と皮膚の間を舐められる。過敏な場所に舌が入られ、アテムは肩を震わせた。
「ッ……、放せよ!」
そこまでしていいと誰が許したのか。指はふやけそうになっていた。海馬の涎れにまみれた手指は、生温かった。
盆を取り、アテムは寝台から立ち上がった。濡らされた手が熱くて、不可解だ。
「おい」
「……何だよ」
「何処へ行く」
「これ、戻しに行くんだよ」
空になった盆を掲げて見せたが、答えに納得していない海馬は文句を言いたげにしている。
「後でもいいだろう」
「……手が汚れたから洗いに行くんだ」
海馬に舐められた利き手を「汚れた」と言い、アテムは見せつけた。海馬はばつが悪そうな顔つきをして口を噤んだ。
それ以上、有無は言わせなかった。
「そんな顔をするな。すぐ戻る」
軽く下唇を噛んで瞳が揺らぐのを、アテムは慰めて告げた。
ほんの僅かな時間でも離れることを異様に怖がっているようだった。気丈な性質だったはずだろう。どこでそんな弱くなったのかは、アテムには分からない。だが、それまでの海馬とは違っていて、その弱さが嬉しくも感じられたのだった。


下人の働き場へ赴けば、また召使いたちを困らせるだろうと思い、アテムは侍女を呼び止めた。用件を伝えれば、寝所まで持っていくと言われたので、アテムは元の廊下へ踵を返した。盆は侍女が持ち帰った。
湿った感触の残る手を不自然に浮かせ、アテムは自身の指や手を眺めた。
「甘いものは嫌いだって言った癖に……」
変な男だ、と吐き捨てる。寝所に戻るには早いような気がして、アテムは少し離れた通路に立ち、侍女が戻ってくるのを待つのだった。

数分も経たぬうちに人の気配がしてくる。
「ファラオ! 寝所でお待ちになっているとばかり」
侍女の娘が小走りでやってきた。アテムは壁に寄りかかっていた。
「急がせたな。ここからはオレが持つから、下がっていいぞ」
アテムは娘に言うが早いか水桶を受け取り、寝所へ戻って行った。侍女は手持無沙汰になってしまい、颯爽と去っていく王の背を見送った。
蓋のついた桶の中には清水が満たされている。両手で抱え持つと肩に重みを感じる。年若い娘ひとりで持つには苦労しただろうと、想像した。

「海馬、戻ったぞ」
紗幕から顔を覗かせると、明らかに安心したように表情が和らぐ。それを認めるとアテムも息がつけた。
「今度は何を持ってきたんだ」
抱えていた桶を床に下ろし、蓋を外した。蓋の方へいくらかの水を移動させ、アテムはその中に両手をつけて洗った。
手拭で水気を取り、新しい布を籠から取り出した。布を清らな水の方で湿らせ、軽く絞る。それを手にし海馬へと振り返る。
「おい……何を……」
「汗をかいただろう。動けないんじゃ、水も浴びれないもんな」
額から耳の裏側へと拭ってやると、海馬は首を動かし、拒むようにずり下がった。
「やめろ……ッ」
「ろくに動けないくせに暴れるんじゃないぜ。大人しくしていろ」
アテムは海馬の半身に跨り、肩口を押さえ付けた。無理にさせなくとも、身体は微動だにしないと分かっていたが、形としてそうするのが正しいのだ。どちらの立場が上か、非常に分かりやすい体勢だろう。
「痛いことをするんじゃないんだぜ……そんな固くならなくてもいいだろう」
肉体は怯えるように強張っているので、アテムは優しげに囁いてやる。布は首筋を通り、鎖骨や胸元を拭う。汗のかきやすい場所だ。念入りに拭いてやる。
「……は……ぁ」
一度、手拭を洗うために海馬から離れると、詰めていた息を吐きだしたのが聞こえた。思わずアテムは口角が緩む。
「寝返りが打てないから、背中が痛むだろう。体の向きを変えような」
腕を引き、自らの体へ傾けさせる。自然と正面から抱き合う形になった。海馬はやはり居心地が悪そうに眉を顰めていたが、何も言わなかった。
「ハハ、おまえの背中は大きいんだな。オレの腕が回らないぜ」
抱き留めるような形で背を拭いていたが、両手を使っても届かない場所があると知り、改めて体格の違いを実感した。
「……貴様は十六なのだろう……。オレは、もう十八を過ぎている」
「うん。そうだな……。二つ違いだ」
手を下ろしていき、腰や腹の周りを拭く。耳元で呟かれた声は、らしくもなく小さく聞き取り辛かった。
「よし、次は足だぜ。体、横に向け……」
寝台に横臥させようとしたのだが、海馬の体はアテムの方へ力を入れているようだった。
「海馬……?」
「…………ッ」
抱擁ではない。ただ、支えているだけ。寄り掛かっているだけだ。海馬は動かせない腕を憎らしく思い、代わりに額をアテムの肩に乗せる。
「海馬? どうした……?」
返事は無かった。肩に乗る海馬の額から、熱を感じた。生きている熱。人間の正しい体温だった。
「疲れてるのか……?」
小さく頭が振られた。アテムはそっと、気づかれないように海馬の後頭部を抱く。悟られないように、触れないように、手が上辺を彷徨う。

意思を持って、アテムは海馬の肩を引き離し、横向けに寝かせた。かけていた衾を捲り、足先から下半身へと拭きとる。
感覚はあるようで、鋭敏な個所に触れれば、びくん、と身体が跳ねた。
「もしかして、足の裏がくすぐったいのか?」
アテムはからかって、指先で海馬の足裏をなぞった。爪の先が皮膚の上をつう、っとなぞる。
「……くっ……!」
堪え声が漏れ、海馬はびくりと体を浮かせた。それから一呼吸の後、視線がかち合った。
「や、やめろ」
「ふふ……可愛い所もあるんだな、貴様にも」
つん、と指先で足裏を突くと、海馬は歪めた顔のままでアテムを睨む。
ひくついた足指がきゅっと握られ、逃げようとして縮こまる。無抵抗のものを苛めるのは、いくらなんでも意地が悪いとアテムはそこから手を退けた。
「もうしないぜ。力抜けよ」
アテムは、また作業に戻った。脛から、膝。膝の裏から太ももへと拭っていく。間接のあるところは汗が溜まりやすい。丹念に拭いた。
腰のあたりから、下着の際まで、ほとんど全身に触れただろう。身を委ねてもらっているとはいえ、流石に局部を開くのは遠慮しておいた。海馬自身も嫌がるのは聞かずとも知れたことだった。
「終わったぜ。どうだ?」
「……ああ」
「ああ、って。他にいう事は無いのかよ」
「貴様が勝手にやっただけだろうが」
横を向く海馬は瞼を閉じている。肩側から覗くが、目を開ける様子は見られない。
「野生動物と変わらないな」
「何だと?」
「そうだ。こっちが勝手に世話を焼いて、面倒をみているだけだ。生かすも殺すも、オレ次第だ」
肩に手を置き、アテムは海馬の横顔を見下ろした。開いた眼が、細められてアテムを見上げている。
「感謝が欲しいんじゃないぜ。きっと、オレの我儘なんだろうな」
「…………何が言いたいんだ」
「オレは海馬に生きていてほしい、と思ってるだけだ」
「……オレは死なん」
「よく言うぜ。死にかけてるくせに……」
アテムは寝台に横たわり、間近で海馬の横顔を見張った。
「貴様がそう願い続ける限り、オレは死なない」
海馬の切れ長の眼が、アテムを捉えた。胸の中から、どろりとした不純物が溶け出すようだ。重くて、暗くて、携えていくには苦しい荷物だった。
「海馬……オレは」
紫紺の強い意志の瞳が滲んだ。視界は薄紫の靄にかかり、世界は淡く彩られた。
「ずっと……」


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