伝染乙女 2

邸は静かだった。夜中すぎまで起きていて、ジョナサンは玄関のほうへ耳を澄ませていたが、とうとう父が帰ってくる気配は感じられなかった。
翌朝になって、ジョナサンはフットマンにディオが何時に帰ってくるのか訊いてみた。
「家庭教師の先生がいらっしゃる頃には戻るそうですよ」
「じゃあ、そろそろかな」
時計は九時半を示している。いつも教師がやってくるのは九時半すぎから四十五分の間だ。
すると、玄関のホールに明るい笑い声がしてきた。
教師と並んでディオが帰ってきたのだった。
「やあ、おはようジョジョ」
こちらに気付いたディオはジョナサンに笑い顔のままで挨拶をしてきた。ジョナサンは、返事はできても、うまく口角を上げられなかった。
「おはよう、ディオ。先生、おはようございます」
「うん、おはよう、ジョナサン。こちらへ来る途中でディオ君に会ってね」
背が高く、どこか爬虫類のような目をしている教師は、どことなくディオに雰囲気が似ている。同じ系統の人間なのだとジョナサンは思った。
優秀で、頭もよく、教え方もうまい良い教師だ。だがディオに似ているというだけでジョナサンは苦手意識を持ってしまう。ディオは成績がよいので確かに贔屓はしているしジョナサンを叱ることは多い。しかしだからと言って教師は決してジョナサンを嫌っているわけではなかった。

家庭教師による授業は昼食をとったあとも一時間ほど続いた。
ジョナサンは何度も時計を見てそわそわと落ち着かなく、集中力は普段より散漫としていた。
終わりが告げられると、ジョナサンはすぐに自分の部屋へ駆け出して、着替えをすませた。
そんな一連の様子を教師とディオは向かい合わせに座って眺めていた。
「おや、何か約束でもあるのだろうか。ここ最近はそんなそぶりは無かったのに」
「さあ。あの慌てっぷりなら、きっと女ですよ」
「ディオ君、そんな言い方はよくないよ」
「先生、ジョジョはそういう奴なんですよ。ああ見えて案外女に弱いんです。……くだらない」
「くだらなくはないだろう。恋をするのはいいことだ。君だって、好きな子ぐらいいるだろうし、女の子たちだって君を見て黙ってはいないだろう?」
教師は軽口を叩いて、ディオを茶化すように言った。
その発言にディオは一瞬鬼のような目をしたが、その怒りに満ちた気を鎮めると張り付けたようなお決まりの笑顔を見せた。
「ぼくはね、先生。女なんかに現を抜かすようなバカな真似はしませんよ。あんなマヌケな顔をして、恋だの愛だの、腐った時代遅れの台詞を口になんてしません」
にっこりと微笑んだ唇から、毒を吐いてディオは立ち上がり、
「では失礼します」
と、いつも通りに挨拶をすませると、凛とした立ち姿のままで去って行った。
「まだまだ子どもだね……」
ジョナサンも、そしてそれよりもディオが。
そう一人ごちて教師は淹れられたばかりの紅茶を口にした。


ジョナサンは走っていた。
町のはずれの古い教会まで、他のものも目に入れずに駆けた。途中で顔見知りの連中とすれ違った気がしたが、ジョナサンの視界には入らなかった。またその少年たちも、ジョナサンをからかったりする暇もなかった。
坂道は転げ落ちるように下り、息が切れて肩が上下する頃には教会に辿り着いていた。
「……いた」
見習いの少女は、今日もまたあたりを掃除している。
老齢の修道女が少女に何か話しかけている。
ジョナサンはしばらく見守っていた。
今日はどこにも他の少年達は見当たらなかった。
昨日より早く来たからかもしれない。ジョナサンはやはり隠れるようにして、木々の合間に身を潜めて少女を見つめた。
時間が過ぎるのを忘れるほどだった。
時折、少女は教会の中へ消えてしまったが、それでもジョナサンは退屈せずにじっとそこに居続けた。少女とのやりとりを想像するだけで時間はいくらでもつぶせたのだ。

「ジョジョ、いいわよ」
陽が傾きかけたころ、ジョナサンは落ち葉の上に座り込んで待っていた。
少女は目も耳もいいのだろう。かなり離れた場所にいたつもりだったが、真っ直ぐにジョナサンの居場所に顔を向けている。
「や、やあ……」
何故か照れくさそうにしてジョナサンは頭や体についた落ち葉を手で払いながら、そばへ寄った。
「来たわね」
どこか勝気な口ぶりをしている。やはり見た目と口調が合わないな、とジョナサンは思う。清楚な格好をしているのに、自信たっぷりの話しぶりだ。妙にそれがちぐはぐとしている。
少女の唇の中で白い小さな歯が覗いて、どきりとした。牙のように尖った歯があった。見間違いかもしれない。ジョナサンは自分に命令していた。
「さあ、入って。昨日の続きを話して頂戴」
「うん」
積極的に少女はジョナサンの腕を掴んで引っ張った。少女の力強さにまたジョナサンは想像を裏切られた。
「……君は、不思議だね」
つい思ったことをジョナサンは喋ってしまった。
「わたし、……おかしい?」
ジョナサンの二の腕を掴んでいる手に、更に力がこめられる。爪がシャツに食い込んだ。
「い、いいや! そうじゃあないよ! ただ、ぼくのイメージのシスターとは違うなって、思っただけなんだ。修道女の人って、すごく大人しくて、静かなんだろうなってぼくは勝手に思ってたから」
「……嫌いかしら?」
「えっ?」
ジョナサンの腕を掴んでいた手から力が緩められると、今度はそっと両手が添えられた。ジョナサンはその少女が自分よりほんの少し小さいことを知った。背も、身の厚みも、体のどこもかしこも。
「どう思うの、ジョジョ」
「え、ええと……」
黒いベールは薄い布地で、間近に見れば少女の顔形が透けて見えそうだった。細い顎から、曲線を描く頬に、形のいい眉、その下に大きな瞳があり、ふたつの目は潤んでいる。
はっきりとは見えないが、確かに噂通りの美形だった。絵で描いたような顔をしている。
「ねえ、どうなの」
詰め寄るように言われ、ジョナサンはしどろもどろとして口をもごもごさせた。
「どうって、そんな、……昨日会ったばかりだし、そんなに話したこともないし……えっと、その」
「……じゃあ嫌いなのね?」
切り捨てるように言った少女は、ぱっと腕を放してジョナサンに背を向けた。
「ちが、……」
どうしてこんな会話をしているのかジョナサンには検討がつかなかった。ついこの前まで、恋をしていた女の子の手前、出会ったばかりの少女に好きなのだとは、軽々しく言えなかった。変なところで真面目な性分が、ジョナサンを縛り付けた。
「あの、……嫌いとかそういうわけじゃあないんだ。でも」
「嫌いじゃあないなら、何なの? ジョジョ、わたしを困らせないで」
責められては、ジョナサンには何も言い訳ができない。困っているのは、自分な筈なのに、ジョナサンは罪悪感でいっぱいになってしまう。
「ぼくは……多分、す、好きだよ……」
精一杯勇気を振り絞って、汗を流しながらジョナサンは言った。こうしなければ、この尋問からは解放されないのだろうと悟ってしまったからだった。
「ふふ……ふふふふ……ッ」
意地の悪そうな笑い声にジョナサンは、聞き覚えがあった。だが、ただ似ているだけなのだとそのときは決め付けた。
「女性に、多分、だなんて失礼だとは思わない? ジョジョ」

振り返った少女はジョナサンのそばに寄り、その身の匂いが分かるほどに近付く。
「……ッ」
嗅いだことの無い匂いがした。黒と白の質素なつくりのワンピースに、薄布のベールにはほんのすこしのレースが縁取られている。甘酸っぱいような、ずっと嗅いでいたら頭が痛くなりそうな変な香りがした。
「それでも多分と言うの」
「よしてくれよ……ッ」
ジョナサンは少女の肩を押して退けるような仕草をした。その行動にまた少女は、苛立った。
「痛い!」
「あっ、ごめんっ!」
そこまで強くしたつもりはなかった。けれど、男と女では力の加減の差があるのだろう。男の自分が「少し」と思っても相手の女に感じる強さは違う。
「ごめん……、ぼくそんなつもりじゃあ……」
「痛い……酷いわ……。わたし、あなたを怒らせたのね」
「いや……」
怒っているのは君じゃあないか。と言いたい台詞をジョナサンは飲み込んだ。
昨日までは優しく話を聞いてくれた、年上の女性にジョナサンには見えていたのに、今では我侭で奔放な年下の娘に思えた。振り回されているのだ。そして、ジョナサンは彼女の放つ言葉ひとつ、動きひとつにびくびくして、その反応に少女は心の中でにんまりと笑みを浮かべている。
「ぼく、今日はもう帰るよ」
ここに居たくなかった。これ以上会話を続けても仕方ないとさえ思え、ジョナサンはえらく疲労してしまった。
「いや」
「え?」
「いやよ、ダメ」
「……駄目って、そんな」
ため息をつきそうになって、ジョナサンはその場に立ち尽くし、額を掻いた。足先が無意識に落ち着かなく、床板を叩いた。
「ジョジョ、昨日の話の続きをするって言ったじゃない。時間ならまだあるわ。ね、あなたの苦しみを教えて頂戴よ」
「………………」
ジョナサンはこの少女が恐ろしくなっていた。逆らえない空気、逃れられない言動に汗が流れるのをそのままにして、教会のベンチに腰を降ろした。



「昨日は……、そう、ジョジョの生活が変わってしまったところまで聞いたわ。どうしてそうなってしまったのか、分かる?」
「それは」
ジョナサンの隣に少女はぴったりとくっついて座った。体温が感じられるほどだった。腕と腕、腿と腿があたっている。否応なしにジョナサンは動悸がした。例え隣にいる少女に得体の知れない恐怖を抱いているとしても、女の子の柔らかな肉体には男の本能は抑え切れなかった。
「ぼくに新しい家族ができたから……」
「誰?」
「新しい兄弟さ」
「へえ、素敵なことだわ」
「普通の子だったらね……」
「……どういう意味?」
少女の声色が低くなった。ジョナサンはそれを無視して続けた。
「ぼくには兄弟がいなかったし、母もいない。父も家をあけてばかりで、友人も少なかったし、その子が家にやってくるのだと聞かされた時は嬉しかったよ。同じ年の男の子だって知って、本当に楽しみだった。名前を聞いた日は、ずっとその子の名前が頭の中から離れなかったんだ。その子がやってくる日まで、ずっとずっとその名前を頭の中で繰り返してた」
喋っていると不思議だった。それまで忘れていた頃の自分の気持ちが鮮明になって蘇る。ジョナサンはまだ真っ新な心だった時を思い出せた。
「名前は?」
「ディ……えっと、それは」
「言えないなら、イニシャルでいいわ」
 少女はジョナサンの心中を読み取ったようにして返した。
「……D……」
「そう」
少女は短く答えて、続きを急かした。
「初めて見た時は、期待で胸がいっぱいだったから、ぼくはちっとも不安を持ってなかった。どうやって仲良くなろうとか、どんな遊びをしようとか、そういう前向きなことばっかり考えてた。でも」
「でも?」
ジョナサンは僅かに腰を浮かせて少女からほんの数ミリ離れて座りなおした。追いかけるようにして少女はジョナサンの膝に乗っている手を取った。熱い手だった。白い手がジョナサンの日焼けした手に乗るとその白さがより際立った。
「夢見ていたような人じゃあなかった」
「……夢見ていた人って、どんな想像をしていたんだい」
「ん、そうだな……顔や体つきはとうさんから聞いていて、きりっとした目つきに、ブロンドの髪に、体つきは細いけど喧嘩は強そうで、ぼくよりしっかりしてるって言ってた。だから、その見た目からして、きっとはっきり物を言う子なんだろうな、とか。礼儀正しいとも聞いていたから、優しい性格をしていて、真面目で努力家なんだろうな、とか」
「……っふ……くく」
少女は突然笑い出した。ジョナサンは訝しげに少女の顔を覗きこんだ。確かに笑っていた。腹のあたりをおさえて、口元を隠している。
「どうしたんだい、ぼくは笑うような話なんてしてないよ」
「気にしないでくれ、続けて」
「うん……その、Dって子が家にやってきた日、ぼくの夢はあっという間に打ち砕かれたんだ。ぼくの理想の兄弟、素敵な家族、そういうものとはかけ離れたものだったんだ」
「Dは、一体何をしたっていうのさ」
少女の口調はまるで少年だった。声の高さもそうだった。急に変わったのではなく……、時間の経過と共に変化しているようだった。
けれどもジョナサンには、少女が少女として映っていたので疑いをかけたりはしなかった。
「ぼくの犬を蹴り飛ばした」
「……ハッ!」
「え?」
「ふっ、フフ……ハハハッアハハハハ!」
とうとう少女は声を上げて笑った。足を前後に揺らして、くすくすと笑い続ける。
「……ッ! 君、どういうつもりなんだ! さっきからおかしいよ!」
「ハハハッ、ごめんごめん、悪かったよ、ジョジョ。だって……笑っちまうよそんな話」
「笑っちまう……? ねえ、君……」
「笑ったのは謝る。なぁ、だから話の続きを聞かせろよ」
少女はとうとうジョナサンの膝の上に自分の片脚を乗せた。長いスカートの裾がめくれて、内腿が露になった。靴下と生身の肌の境界線が見えた。
「……き、君って……」
ようやくジョナサンは、この少女が「普通」の修道女見習いとは違うことを知った。シスターどころではない。普通のレディですら、こんなはしたない真似をするものか。まるで男を誘う手管を知り尽くしたような……。
「や、やめてくれよ! こんなこと! こんな場所で!」
ジョナサンは少女の足を払って、目の前にあるマリア像を指した。
神像を前にして、神に仕えようとする身であるものがこんな淫らな行いをするわけがなかった。
「ただの石像だよ、ジョジョ。神に意思などありはしない」
少女は更にスカートをめくりあげた。両腿の瑞々しい肌が眩しく光るのだった。
「や、やめてよ!」
一気に頭に血が上って、ジョナサンは少女の手首を掴んだ。
「近所の悪ガキどもはみんな噂してる。あの女のスカートの中はどうなってるのかって。なあ、あいつらに教えてやれよ、『おまえのママとおなじ穴がついてる』んだってさ!」
「……!!! やめろ!」
「……痛い」
ベンチの背もたれにジョナサンは少女の手首を押し付けた。無感情に少女は呟いて訴えた。
「嘘だ、全然痛くないくせに」
「痛い……離してよぉ」
「今更、そんな声出したって、ぼくには君の本性が分かってるんだぞ」
「本性? 何が? ぼくの何が分かったっていうんだい? 君は力の劣る女の子に対し暴力をふるっている悪い男の子だろ……こんな所に誰かきたら、間違いなく君が悪者だとみんながみんな口々に言うだろうね」
「君が……か弱い女の子だって?」
「そうさ、手を貸せよ」
少女はジョナサンの返事を待たずに手をとると、自らの胸に持って行った。膨らみは上辺がふっくらとしていて、芯のある硬さが残っている。成長途中の少女の乳房だった。
「ククク……ハハハ、アハハハハハハ!!!!」
しっかりとその胸の形を手にして、ジョナサンは唖然とした。
大声で笑い出す少女の声が耳の中でこだまして、キンと響く。こみ上げてきた涙を堪えて、ジョナサンははじけるようにその場から逃げ去った。少女の笑い声は、教会を出たあともまだ耳を衝いて止まなかった。

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