伝染乙女 3

ジョナサンが走り去った後、少女は両手で口元をおさえて笑った。しばらくしたあと、元に戻った声で、独りでに喋り始めた。
「ふう……ふふ、あの顔……、傑作だな。ああ笑える」
そしてベールを取り払い、編み込んだ髪を手櫛で解いた。
「だけど、安定しないもんだ……」
少女がワンピースの胸元の釦をひとつずつ外して、それから自らの平らな胸に触れた。
膨らみの消えた、薄い胸板だった。
「もう少し遅ければ危なかったなあ、あいつ、変に勘が冴えてたりするからなあ……あの目は、そういう疑いを持ってた。でもあと少しだ」
ディオはワンピースを脱ぐと、教会の棚に仕舞っていた自分のシャツとズボンに着替えた。そして外にある井戸に向かうと、癖のついた髪に水をかけて濡らした。
「まあいい。どうせあいつはまたここに来るだろう」
濡れた前髪を後ろに撫で付けて、ディオは頭をふるりと振った。昨日と同じような真っ赤な夕暮れが町並みを包んでいた。

ジョナサンは、あれからすぐに邸に戻って部屋に閉じこもった。一度、様子を見に来たメイドが茶を持ってきたのだが、結局それを口にすることはなかった。
父はこんな時には家に居て、夕飯時には降りてくるよう命じてくるのだった。
けれどジョナサンは、何かを口にしたい気分には到底なれず、呼びにきたフットマンに駄々をこねて困らせた。
「いいんだ。いらない。何も食べたくないし、誰にも会いたくないんだ……ぼくを放っておいてよ」
「ジョジョぼっちゃまが降りて来られなかったら、わたくしが執事に怒られてしまいます」
「……う」
フットマンはジョナサンの良心をいためるように言った。ジョナサンはそれを聞いてしばらく渋い顔をしていたが、それでも首を振った。
「……仕方ありませんね。具合が悪いようなら、お医者様を呼びましょうか」
「ぼくは平気だから……もうほっといてよ」
「そう言われましても」
「一人にしてったら!」
ベッドの布団にもぐりこむと、ジョナサンは篭城を決め込んだ。
時間があまりにもかかるので、痺れをきらしたジョースター卿がジョナサンの部屋の前までやってきていた。戸を閉める使用人に声をかける。
「どうだい、あの聞かん坊は」
「布団に入ってしまわれました。誰にも会いたくないとかで」
「腹が減れば嫌でも出てくるだろう、まあよい。今日のところはそっとしておこう」
「はい」
ジョナサンの前では当主として、威厳を保っていたが、子の知れぬ所では卿は相変わらず息子に甘い父親であった。その思いは、なかなか子には伝わらず、ジョナサンが孤独を深めていることをジョースター卿は知らずにいた。
「お義父さん?」
「おおディオ、遅かったな……どうしたんだい」
ディオはたった今帰ってきたようだった。濡れた髪を乾かしながら、廊下を歩いてくる。
「友達と川辺で遊んでいたら遅くなってしまって。体は拭いてきたんですけど、髪はご覧の通りで」
「ははは、そうかい。君はジョナサンと違って随分友人が多いようだね。昨日は泊まりに行ったようだし、忙しいね」
「ええ、このあたりの子はみんないいやつばっかりですよ。よそものだったぼくをすぐに仲間に入れてくれて、毎日楽しいです」
「……それに比べてジョジョは一体どうしたっていうんだろうね……。ここ最近は外に出かけることも多くなって、やっと安心したと思ったら」
「大丈夫ですよ、お義父さん……ジョジョにはぼくがついていますから」
「それは頼もしい限りだ!」
朗らかに笑った卿は、ジョナサンと同じ色の蒼い目を細めていた。ディオは琥珀石の目を真っ直ぐに見向けて、卿に自信たっぷりに言ったのだった。
食事の時間だとディオに伝えると、卿は先にダイニングへと足を運ばせた。
ひとり、二階の廊下に残ったディオはにやりと口角を上げて誰に聞かせることなく続けた。
「……ぼくが、ね」
ジョナサンの部屋を見つめて、ディオはくっくっと腹の底で笑った。

ジョナサンは眠れずにいて、頭痛を引き起こしてくる少女の不気味な笑い声をいつまでも耳の奥に残したままでいた。
忘れようとしても、あの時のことが頭から離れない。
「うう……くそっ」
枕に顔を押し当ててうめいてみても、すぐに少女が現れてはジョナサンを嘲り笑う。
そして甘ったるく、ジョジョ、ジョジョ、と繰り返し呼ぶのだった。
書き換えられてしまった少女像が、ジョナサンの中でエリナの姿を消し去ろうとする。楽しい、嬉しい記憶だった女の子の思い出が、恐ろしい女の姿へと変化する。
「うう……ッ、くうう……ッ」
少女は清らかだったはずだ。少女は美しかったはずだった。少女は憧れだったのだ。
それが、打ち壊されて、ジョナサンの夢を殺した。
生々しいまでの感触がいつまでも手にまとわりついている。
嫌だ、いやだと、ジョナサンは頭を振った。けれど、その手にあった芳しい女の匂いが悪魔の行いへと誘う。
手を鼻に近づけて、僅かな残り香を吸い込む。すると少女の胸の中に包まれているような錯覚がする。
膨らみの合間に頬を寄せて、この世で一番幸福な肉の触れ合いを夢想する。
「ごめん、ごめん……ごめんなさい」
自らの意思とは反対に足の付け根に利き手を運び、点いてしまった火を消すようにして慰めた。
「こんなの、ちがう……ちがうのに……ッ!」
果てる頃にはジョナサンは泣きじゃくっていた。
白い腿と黒絹のストッキングの、その短い隙間が何と魅惑的だったろうか。
ジョナサンは、女性のスカートの奥の底よりも、その手前こそが最上ではないかと思った。
「最低ね」
ジョナサンは頭からかぶっていた布団を思い切りめくりあげて、起き上がった。
耳のすぐ裏で、あの少女が自分を貶した言葉を発したと思った。
幻聴だった。それにしては、やけに明瞭だった。



ジョナサンは、次々と自分の身に起きる出来事に対応するだけで精一杯だった。
だから、シャツのカフスボタンを無くしていたことに気付いたのは、翌朝になってからだった。
着替える際になってようやく身の回りに目がいくようになった。
「……あの時、しか」
メイドがジョナサンの着替えを手伝っていると、彼女もまたボタンに気がついた。
「ぼっちゃま」
「たぶん、この格好で寝てたからどこか落としたのかな。探してみるよ」
メイドの言葉を遮るようにしてジョナサンは慌しく早口で告げた。
「そうですか、わたくし共も注意して掃除いたしますわ」
「うん……」
心ここにあらずのまま返事をし、ジョナサンは着替えを終わらせた。
腫れぼったい瞼を擦りながら、ジョナサンは朝食室へ重い足を引き摺って歩いた。
席には卿もディオもとっくに着いていた。卿は新聞を手にしていて、ディオは静かにモーニングティーを飲んでいる。かしこまったように澄ました顔が、憎らしかった。
「おはようジョジョ」
「おはようございます、とうさん」
「やあ、おはよう。久しぶりだね、ジョジョ」
「……おはよう、ディオ」
ディオの作り笑顔にジョナサンはますます元気を失った。嫌味も慣れたものだったが、返事をするのがやっとだった。
昨日の件について誰も訊いてこないのが、ジョナサンは余計に傷ついた。まるで自分のほうこそがこの家庭において余所者のようで、居心地が悪かった。昨日の昼から何も口にしていないせいで、ハムやベーコンの油っぽい味が胃に重くて、いつまでも口の中で咀嚼し続けていた。

長く重苦しい朝食が終わると、卿は仕事に向かい、子どもたちは家庭教師がくるまで勉強の準備をしたり、散歩をしたりした。
ジョナサンは一度部屋に戻ると、きれいに片付いた部屋を見回した。
洗濯籠を抱えたメイドがいたので、声をかける。
「ジョジョぼっちゃま。ボタンなんですけれど、お部屋の中をよく探してみたのですが誰も見つけられませんでしたわ。小さいものですし、見落としているのかもしれませんから、もう一度くまなく探してみようかと思って」
「ううん、いいんだ。出かけたときに無くしたのかもしれないから、午後にでも探してみるよ。ありがとう」
「あれは……おばあさまから頂いたものでしたわね」
ジョナサンが幼い時から仕えてくれているこのメイドは、細かいことによく気がつき、一人っ子であったジョナサンにとって年の離れた姉のような存在であった。
ボタンや、タイや、ベルトやサスペンダーなどジョナサンが身に着けるものも彼女なら知り尽くしている。やんちゃだった少年が、どんな時に何を無くして、何を壊したか、彼女はひとつひとつ覚えている。
何年か前に亡くなった祖母から貰ったボタンだということも、彼女だけが知っていて覚えている。
「うん……あれは、大人になっても使うものなんだ。だから、ぼくはちゃんと見つけるよ」
「ええ、そうですわね」
ジョナサンは、姉のようなメイドの力強く優しい笑みに、女性というものの素晴らしさを新たに胸に刻み込んでいた。

曇り空を仰いでジョナサンは敷地内を散歩していた。
朝露に濡れた芝生を踏むと小気味好い音が立った。
胸に緑豊かな空気を吸い込めば、ジョナサンは体内が生まれ変わる気分になる。もやもやとした遣る瀬無い思いが、呼吸と共に抜け出ていくイメージをした。
「……ハァ」
それでも、すぐに切り替わるほど単純な思考でもなく。ジョナサンが思い切り吸い込んだ分の量だけの空気が、ため息となって排出された。
教会での出来事を思い返すと、頭の片隅が酷く痛んだ。ジョナサンはこめかみに手をあてて、脳を針で刺すような痛みが通り過ぎるのを待った。
少女の甲高い笑い声が、幾重にもなって後ろから追いかけるように響いてくる。あのときを思い出すと、最後に聞いた声がジョナサンの中で嫌でも繰り返された。
「一体、あの子は何なんだ」
町の少年たちが噂する美人。老いた修道女の前で見せる大人しげで従順そうな態度。
そして、ジョナサンの前で豹変した彼女。
「ぼくを、まるで……憎んでいるような」
あのような場所に近付いた覚えもなく、ジョナサンはディオに言われて初めて知ったほどだったのだ。
町外れの古びた、ひと気のない寂しい教会。
「そういえば、ぼく以外誰もいなかったな」
いくら何でも、一人も来ないのもおかしい。古い建物だというなら、昔から知っている人がいるはずだ。
「それに、ボタンだ」
少女とジョナサンがもめた時に、もしかしたら外れてしまったのかもしれない。走って帰ったから、どこかに引っ掛けたのかもしれない。
「もう一度行くのは気がひけるけど」
片袖についた、ボタンを目にすると、ジョナサンは遠い記憶にある祖母を思い出した。数少ない贈り物のひとつなのだった。それを大事にできない自分が許せなかった。

いつになくジョナサンは真剣に授業をうけて、この日は一度も教師に叱られなかった。
「ジョナサン、今日は真面目だね」
いつだってそのつもりで勉強をしているのだが、教師には今日が特別に映ったらしい。それがジョナサンには何だか悔しかった。
「それだけ集中してくれると、こちらとしてもとてもやりやすい」
「……フン」
ディオは普段通りだった。終始無言でいて、動作のひとつひとつに無駄がなかった。ジョナサンは何となくそんなディオの姿を、時折横目で見ていた。
一日の授業分が思ったよりも早く終えられたので、教師は本を閉じると、
「昼前に本日分までが進んだので、少し早いけれど今日はここまでにしよう」
「ありがとうございました」
毎日のようにジョースター邸で昼食をとっている教師が、正午の鐘がなる前に邸を出発した。
彼もまだ若いので、何か予定があるのかもしれない。ジョナサンは二階のベランダから足取りの軽い教師の後姿を見ながら、彼のプライベートを想像した。
同じような暗い色のブルネットの教師の髪に、ジョナサンは自分を重ねた。
本当についこの前まで、自分だってあんな風にうきうきと邸から町へと続く道を歩いたのだ。
女の子と遊ぶ日はそうだった。
昨日の昼までも、そうだったかもしれない。
修道女見習いの少女に出会ったばかりのあの日なら。

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