伝染乙女 4

午後のお茶を飲んでから、ジョナサンはやっと出かける気になった。
使用人たちはいるのは分かっていても、ジョースター邸はいつも人の温度が感じられない。それは多分、主たちがいない証拠だった。
ジョナサンが一階へ降りていくと、フットマンが扉の前に立った。
「ぼっちゃまもお出かけですか」
「うん……、ディオは?」
「昼食を済ませられてからすぐにお出かけになられましたよ」
「どこへ行くって言ってた?」
今までだってジョナサンはディオの行き先を尋ねたりはしなかったので、フットマンは僅かに驚いて、返事が遅れた。
「……いえ、ですが、恐らく町のほうへ行ったと思いますよ。ジョジョぼっちゃまとは違う遊び方をなさいますからね」
「ぼくとは違うって?」
「ええ。ぼっちゃまは川ですとか、野原や森など、敷地内もそうですが、自然の多い場所でお遊びになられるでしょう? ですがディオさんは、あまりそういった遊びには興味が無いようですから」
「何でそんなこと分かるんだい」
「お帰りになったときの服を見れば分かります」
「ああ、そうか……そっか」
確かに、言われてみればそうだった。ジョナサンは体を動かすことが好きだったし、人の多い町よりも領地やその付近で遊んでいることが多かった。
ディオがやってきてから、それが顕著になった。
「暗くなる前には帰るよ、じゃあ行ってきます」
「お気をつけて」
曇り空は朝と変わらずに灰色にくすんでいる。
「雨が降りそうだなあ……」
軽く走りながらジョナサンは教会へ向かった。

教会の周辺には何人かの少年がまた木陰に隠れて、あの少女を覗き見ようとしている。
ジョナサンはしばらく考え込んだが、目的が彼らとは違ったので堂々と入って行った。
彼らがジョナサンの存在に気付いたかどうかは、教会に入ってしまえばさして問題ではなかった。
「来た道には落ちていなかったから、ここにあるといいんだけど……」
ジョースター邸から教会までの道のりを、ジョナサンは注意深く辿って来た。カフスボタンは蒼い石が嵌め込まれて銀で作られている。道端の石とは違って、目立つ色をしているので、落ちているのなら見つけられると思っている。
木造の床板をひとつずつ確かめながらジョナサンは教会内を歩いた。そして、少女と座っていたベンチの前に来て、しゃがみこんだ。
「……無いなあ……」
ボタンどころか、髪の毛一本ですら床には落ちていなかった。きれいに掃除されてしまっている。
「そこの方、何をしているのです?」
ジョナサンは、吃驚して床を這ったままで声のした方向へ振り返った。
老齢の修道女がジョナサンを見下ろしている。目つきの悪い皺だらけの老女は、ジョナサンの頭から足先までをじろじろと視線を送った。そして、ジョナサンは驚いたままで固 まっている顔をじっくりと眺めた。
「何をしていると、聞いてるのです。お答えなさい」
「……あの、ここで忘れものをしてしまって、それを探してるんです」
きつい物言いで老女はジョナサンを問い詰めた。ジョナサンは這っていた体を起こして、立ち上がりながら答えた。
「探し物ですか……、それならあの子が見つけたかもしれませんね」
「あの子?」
「ここの掃除はあの子に任せていますから、聞けばあなたの探し物もあるかもしれません」
「あの、それって見習いの女の子のことですか?」
ジョナサンが会っていた少女のことであるのだと確信していた。けれど、ジョナサンが近寄り尋ねると、老女は大きな目玉を剥いて声を荒げた。
「なんていやらしい!」
「……え?」
「ああ、汚らわしい! 子どもだと言ってもやはり男は男! おまえもあの下品な少年たちと目的は同じだね! いいかい、あの子には会わせないよ! 外で待っていなさい!」
老女は細い骨ばった手で力いっぱいジョナサンの背を押して、教会の出入り口まで押しやっていった。その気迫に圧倒されたジョナサンはそのまま外へ追い出されてしまった。
「別にぼくはそんなつもりなんかじゃあ」
侮辱され、ジョナサンは怒りそうになったが、あの少女にされた行いと、それによってした自分の恥じるべき行いを思い起こして、沈黙した。
少年たちは今も隠れて、少女の動向を窺っているだろうか。
いやらしい目つきと下心を持ったあの無作法な輩どもと一緒にされて、ジョナサンは腹立たしいやら悲しいやら複雑になって、その場に転がっていた石を蹴った。
でも、きっと、やつらと自分と、根源にある欲望の名前は同じなのだろう。
だからあの老女はそれを見抜いてジョナサンを退けたのだ。
「でも、そんなつもりでここに来たわけじゃあないのに!」
もう一度ジョナサンは地面を蹴り上げた。今度はただ砂塵が宙に舞っただけだった。

教会の中からは、老女の狂った叫び声がする。
「どこにいるの! 出てきなさい! 隠れてないで、すぐに返事をしなさい!」
ジョナサンは扉の前に立って、ガラス窓から中を覗いた。
老女は、その身から絞りだすようにしたしわがれ声で少女を呼んだ。
「おまえに用があるんだよ! さあ、ここに来るんだ!」
ジョナサンは妙だと思った。老女はいつまでもあの少女の名前を言わないのだ。名前を呼ばなければ、少女だって呼ばれていると気付けないのではないかと思った。
初めて会ったときに少女は名乗らなかった。そういう決まりで教えられないと言っていた。
「名前を呼べないのかな」
「……ジョジョ?」
ジョナサンはガラス窓ばかり見ていたので、背後には気を配っていなかった。だから急に声をかけられて、思わず体が飛び跳ねそうになった。
「ふふ、おかしいわね」
少女は、ぴったりとジョナサンの背に身を寄せた。体のかたちがはっきりと感じ取れるほどに少女は身を合わせた。
「……き、君……ッ!」
「見てよ。あのおばあさん、わたしのこと探して怒ってるの。おかしい」
少女はジョナサンの耳の裏をくすぐるように、囁きながらくすくすと笑った。
「行ってあげなよ……、君を呼んでるんだろ」
ジョナサンは老女が哀れに思えてならなかった。
「イヤよ。また何か用でもおしつけられるんだわ。しばらくあのままにしておきましょ」
ジョナサンは、張り詰めていた気を緩めてしまった。
少女の身は温かだったし、話し方が最初の頃のように柔らかだったからだ。
メイドや乳母やとは接していても、ジョナサンは同年代の女の子とは、ほとんど接したことがなかったし、母親が居ないためなのか、どうにも女性に弱かった。女の子の扱いが苦手な気がする。
だから油断してしまう。
「ねえ、わたしに会いたかった?」
少女はやはりジョナサンの耳のそばで話しかける。ジョナサンは首筋にぞわりと鳥肌がたった。けれど不快では無かったので、混乱して頭が熱っぽくなった。
「ねえ、ジョジョ」
そして少女はますます体を密着させる。とても薄い服なのだろうか。体の凹凸が背中を通して分かる。
胸のささやかな盛り上がりから、締まったウエストライン、少し膨らみのある下腹。
「ちょっと、……やめ、てよ、近いよ……」
「ダメ、わたしを隠してくれなきゃ。見つかったら叱られるんだもの」
少女はジョナサンを盾にして、その後ろに隠れているつもりらしい。
けれど、ジョナサンは少女には別の意味でこうしているのだろうと読んでいた。

少女はジョナサンの背の後ろで、またくすくすと笑った。今も老いた修道女は大きな足音を立てながら教会内を歩き回り、少女を呼んでいる。
「ジョジョ、向こうに行きましょ。ここにいたら見つかっちゃう」
「でも」
「いいから!」
少女はジョナサンの左腕をとると、駆け出した。長いスカートを物ともせずに、少女は教会の裏手へと走る。
ジョナサンは、ガラス窓の向こうで叫んでいる老女を見てから、反対の木々の影を見た。
恨めしげな、そしてどこか羨望の眼差しを送る少年達の並んだ目玉がちらりと見えた。彼らは諦めたようであったが、ジョナサンは彼らが羨ましかった。
「教会の裏のハウスは、神父とシスターが住んでいるの。あの通り年寄りだけよ。だからこの庭の草も木も手入れはされてないから、そのままにされているわ。隠れ鬼するには丁度いいでしょ」
樹齢が百はとうに越えているだろう大木が並んでいる。そして雑草はあちこちに生えて、花も緑も自由だった。人口的に作られたガーデンとは違って逞しさを感じる。
少女はジョナサンの腕を引いて、その草むらの中に座らせた。
「……遊んでる場合じゃないよ」
「遊び? 鬼はあのおばあさん。わたし達はそいつから逃げてる」
「だから、ぼくは遊びにきたわけじゃあないんだってば」
「じゃあ、行けば? 一緒になって隠れてるんだもの。そういうつもりだと思ってた」
「それは、君が……ッ!」
つい向きになってしまう。ジョナサンは立ち上がりかけた腰を落として、熱くなった頭を冷やそうと額に手をあてた。
「一人に……しないで、ジョジョ」
「……ええ?」
少女はジョナサンの肩を掴むと、擦り寄るようにして肩口に頬をつけた。
「わたしを置いていかないで、お願い」
「何だってそんな……」
「そばに居てほしいの、あなたじゃなきゃダメなの。分かって、ジョジョ」
ベールの下の素顔はきっと真っ直ぐにジョナサンを見つめていて、情感たっぷりに瞳は懇願している。
「君の言ってることは支離滅裂だ! 意味不明だ……ッ、ぼくは、ぼくは」
ジョナサンは己の理性に味方して、少女に抵抗した。少年の欲色を理解している少女の肉を突き放すことで、ジョナサンは他の少年とは違うのだと示した。
「どうしてそんなこと言うの」
はっとしてジョナサンは身構えた。少女の肩が震えていて、怒らせたのだと知った。少女は地面に生えている草を握り締めていた。
「どうして……、どうして」
「あ……」
ジョナサンは少女を正面から捉えた。首を下方へ傾けて、細い肩を自らの腕で抱き、地面についた手には泥と草が握られている。
「……どうして、あなたは……」
薄布の下、光ったものが流れていくのをジョナサンは見つけてしまった。
「君……」
名前を知らないので、ジョナサンは切なくなった。相手を呼ぶための手段がない。
抱きしめるわけにもいかず、ジョナサンは少女が次に口を開くまで黙って見守るしか出来なかった。
「いつもそうだわ、わたしにだけ……」
「いつも?」
「分からず屋!」
少女は手にした泥と草をジョナサンに投げつけた。
何が少女を怒らせた原因なのかが、ジョナサンにはやはり見当もつかなくて、ただ受け止めるしかなかった。
「君は……誰かとぼくを勘違いしてるんじゃあないのかい。ぼくと君はまだ知り合ったばかりで……それに、ぼくは君に何かした覚えなんて無いんだ。もし、君を怒らせるようなことをしたっていうなら謝るけれど、ぼくにも分かるように言ってくれなくっちゃ、謝りようはないよ」
少女は泥まみれになった手をスカートの上で拳にしていた。その汚れた手がとても寂しそうに見えて、ジョナサンはその手に自分の手を重ねてやりたくなったが、そんな権利を持たないと判断して、触れることを諦めた。
それから、しばらく二人は黙りこくっていた。
少女は道端の石と同化してしまったかのように、固まって微動だにせずにいた。ジョナサンは足が痺れたので、その間に何度か座りなおしては、ただ少女の前に居続けた。
曇り空はだんだんと暗さを増し、やがて雨粒を降らせた。
始めに気が付いたのは、少女の黒いスカートに雨の染みができたからだった。ひとつ、ふたつ、と水玉模様のように染みができていき、ジョナサンは空を見上げた。
雨の粒は小さくて、目を凝らさなければ気がつけないほどだった。
「濡れるよ」
ジョナサンは湿った地面から立ち上がって手を差し伸べた。
構う必要はないのに、ジョナサンは声をかけてしまう。
一人にしないで、置いていかないで、そばにいて。
そう願われたから、だけじゃない。
何もそんな言葉に義務感を抱いたわけじゃない。
ただ、単純に、ひとりで泣いている女の子を無視するのは、紳士のする行いじゃあないだろうとジョナサンはそう思うからだった。

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