花園監獄 １
あの子は、可哀想な子なのだから、年上である君は、彼を労わってあげなさい。父はジョナサンにそう仰いました。
「いたわるとは、どういうことですか？」
「優しくするということだ。私が君を大切にするのと同じくらいに、そうしてあげなさい。」
あの子とは、しばらくの間ジョースター家で預かることになった、まだ六つか、七つかの幼い少年のことでした。名前は、ディオ。愛称は特にないと言っていたので、ジョースター卿はディオくん、ジョナサンはディオと呼んだのでした。
薄い色素の不健康そうな肌色は、ジョナサンの日に焼けた肌とは真反対の色をして、雪白でありました。
伸びかけの髪は、透き通るような蜂蜜色をしていて、睫毛の先は飴細工のようで、その姿は絵本の中の妖精を思わせました。
花でも頭に飾り付けてやりたいくらい可愛い。ジョナサンは、初対面ではそんな風に考えたものでしたが、やがて日が経つにつれて、微塵もそう思えなくなったのでした。
庭で、愛犬の叫び鳴く声が聞こえてきました。ジョナサンはバルコニーでお茶を頂いていましたが、声を聞くや否や、転がり落ちる勢いで、階段を駆け下りました。
「あっ！ またいじめているな！」
息を切らして、ジョナサンはダニーをいじめる相手を責めました。
愛犬のダニーの正面に立つのは、現在のジョナサンの悩みの種そのものである、ディオでありました。
「フン！ この駄犬が悪いんだ！ ぼくの靴を取ろうとした報いだ！」
ダニーはすっかり怯えておりました。大人のステッキを振り回されて、きっと身を打たれたのでしょう。ぶるぶると震えて、伏せておりました。
「ディオッ！」
ジョナサンは、ダニーに向かって振るわれるステッキの柄を持って掴みました。
「なんて酷いことをするんだ！ 見ろ！ こんなに怖がっているじゃあないか！」
「ぼくは悪くないぞ！ この犬が悪いんだ！ 離せよっ、お父様に言いつけるぞ！」
お父様というのは、ジョナサンの父親のことでありました。ディオは、ジョナサンが六つ年上である立場であり、父親のジョースター卿から兄のように寛大に接するよう言い付けられているのを知っていて、我が儘勝手放題に過ごしておりました。
ディオは、年齢以上に頭がよく、狡猾なやり口を知り尽くしていたのでした。
もし、ディオがジョースター卿に泣きつけば、ジョナサンは一方的に叱られるのです。年下を泣かせたとなれば、問答無用に年上が悪役となり、言い分など聞いては貰えません。
現に二人の争いを誰にも見られていないとなれば、尚更でありました。
当人同士しか分かり得ないのならば、証拠などありませんですし、ジョナサンのどんな言い訳も、ディオの涙には勝てないのでした。
「でもこれは父さんのステッキだろう？ 勝手に人の物を持ち出しちゃいけない、返すんだ！」
「痛い！ 痛いッ！」
ステッキを握りしめている指を剥がそうとして、ジョナサンは小さな指を引っ張りました。
大袈裟にディオは喚くと、庭の手入れをしていた老いた園丁が、何事かと顔を出してきました。
「ぼっちゃまたち、何をしてらっしゃる……」
声に驚いたジョナサンは、手を離して思わず、ディオを背に隠してしまったのでした。
「なっ！ 何でもないよ！」
「悲鳴のようなお声が聞こえましたが、何か悪さなどしてはいませんね？」
「してないよ、なんでもない、何でもないんだ、心配しないで！」
ディオはジョナサンの背に向けて、舌を出していました。
誰がどう見ても分が悪いというのは、ジョナサンも自覚しておりました。
ですから、咄嗟にディオを隠してしまったのです。
もしも、あのやりとりを見られていたとしたら、年齢の差もありますが、体格が大きく違うジョナサンとディオでは、明らかにジョナサンがディオを虐めているようにしか見られないでしょう。
決してジョナサンは年下を腕力でねじ伏せるなど、そんな卑怯な真似は致しませんでしたけれど、ディオという少年は、上手にジョナサンを悪者に仕立てることが出来るのです。
「……ッ、全く……近くに園丁さんがいるって分かっていて、君は叫んだんだな、そうなんだろ？」
「知らない！ 本当に痛いから、声が出ただけだ！ もう！ ステッキから手を離せよっ！」
「駄目だッ、父さんに返すんだ！」
「ぼくから返すんだからいいだろ、一日かしてもらったんだ！」
「父さんはあんなことさせる為に貸したわけないじゃあないだろッ！」
ステッキの柄をぐいと、ジョナサンは力任せに引くと、手を離さなかったディオはその場に転んでしまったのでした。
「あ……っ！」
膝頭を軽くすりむいて、ディオは両の手を芝生につけてしまいました。ディオは起き上がると、傷口の血を見て、ジョナサンをきっと睨んで立ち上がりました。
「ジョジョなんか、嫌いッ！ 大嫌いだ！」
これは、喧嘩の最後の合図でもありました。決まってディオは、この台詞を言って、どこかへ行ってしまうのです。きっと怪我をさせられたことに腹を立てたのでしょうし、また力で適わなかったのが悔しくて立ち去ったのでしょう。ディオは、涙を武器にはしていましたが、ジョナサンに対してたったの一度も泣き顔を見せたことはありませんでした。
「ぼくだって……、ディオが嫌いだよ……ッ」
行き場を失った憎しみを、奪い返したステッキをかたく握ることで発散させて、ジョナサンはため息をついたのでありました。
ジョースター卿が帰宅いたしますと、召使いと子どもたちは玄関に並んで、卿を迎えました。
「ジョースターのおじさま！ お帰りなさい！」
ディオは一目散に走って卿の足元に抱きつきました。
幼さを全面に出した笑顔と、ジョナサンの胸糞が悪くなる猫撫で声で甘えれば、ジョースター卿の腕にディオは抱き上げられました。
「おお、ただいま、今日も良い子にしていたかな？」
「はい！ ディオは今日は、ご本を二冊も読んでしまいました！」
「それはそれは、とっても良い子だ。」
どこが！ ぼくのダニーをいじめて遊んでいたヤツがよく言うよ、とジョナサンは腹の中で悪態つき、苛立ってうなじを掻きむしりました。
「ジョジョ、ただいま。ディオの面倒はよく見ていてくれたかな。」
「おかえりなさい、父さん。……ええ、まあ、……。」
歯切れの悪い返事をして、ジョナサンは眉を下げました。
ディオが邸にきてから、すっかり父親を取られてしまった気になって、ジョナサンは父親に本心を打ち明けられなくなりました。
ディオと、父と、自分。食卓や勉強部屋、三人でいれば、どうしてもジョナサンは居心地が悪くなるのでした。
父の関心や気が、いつもディオに配られているようで、ジョナサンは薄暗い気持ちを胸に抱えたのです。
いくら自分がディオより年上だからと言われても、ジョナサンまだ十二の子どもでありましたし、母はとうに亡くなっておりましたので、ジョナサンにとって唯一の肉親である父に甘えたい、頼りたいと思うのはごく自然な感情でありました。
「では少し遅くなったが晩餐にしよう。」
ジョースター卿はコートを脱ぎ、帽子を召使いに手渡すと、二人を食堂へ向かわせたのでした。
食事が終わりかけた頃、ジョナサンは紅茶のおかわりをもらうか悩んでおりました。
「そうだ、ジョジョ。君におみやげがある。」
「えっ？」
思いがけず父から言われて、ジョナサンは間の抜けた声を出して顔をあげました。
「君も一人で出かけたりもするだろうし、そろそろ必要かと思ってね。」
ジョースター卿はちょっぴり勿体ぶった言い方をして、上着の胸ポケットに仕舞っていたものを取り出しました。そしてジョナサンに手を出すよう合図をいたします。
クリーム色をした紙に包まれ、細い赤いリボンがかけられている小さな箱が手渡されました。
「わあ、あけてもいいですか？」
いいとも、とジョースター卿が微笑んで頷くのをジョナサンが見ますと、手の中に収まる箱の紙を急いで開けていきました。
「あっ！ これは……懐中時計だ！」
ちくたくと正確に時を刻み、金色にぴかぴかと光っておりますその時計はジョナサンの手にすっぽり収まりました。まるでずっと昔から自分の手の中にあったように、見事に収まるのです。蓋の裏には、ジョナサンの名前も彫られておりました。黄金色の文字で書かれている自分の名前がとても誇らしく思えました。
「嬉しいなぁ！ ありがとう、父さん！ 大事にします！」
満面の笑みを向けて、ジョナサンは父親にお礼を言いました。ジョースター卿も満足そうに、そして少しばかり照れくさそうに目を細めて息子の喜ぶ姿を眺めました。
「ここのところ、君はよくやっているようだからね」
卿は、ディオに視線を配ったのちに、またジョナサンに目を向けました。
言われて、ジョナサンは表情をさっと曇らせました。
ジョースター卿の思う程に「よくやっている」わけでは無いと、ジョナサンは思っていたからでした。
――面倒なんて、見ていない……。ぼくはディオを可愛がってもいない……。むしろ……。
ディオは、黙ってジョナサンの暗くなっていく顔を観察していたのでした。
数日後、しばらくの間、大切に引き出しに仕舞っていた時計を、やっと持って出かける日が来ました。久しぶりに街へ遊びに行くことになったのです。
「おっかしいなぁ！ ぼくの時計がないぞ！」
ジョナサンの部屋は整理整頓がきちんとされているとは、お世辞にも言えませんでしたが、確かにこの引き出しにしまったのを記憶しておりました。たった数日の間であります、忘れるわけがありません。
しかし、いくら探せども、あの小さな箱が見つかりませんでした。
「参ったなぁ、友達との待ち合わせに遅れてしまう。」
着替えも済み、食事も済ませ、あとは時計と荷物を持って家を出るだけでしたが、肝心の時計がありません。
「……エリナに見せてあげたかったのになぁ……」
仕方ない、とジョナサンは、引っ掻き回していた引き出しを戻して、邸を出ました。
最近、仲良くなった少女に時計を見せてあげたかったのですが、ジョナサンは時計を見つけ出すよりも、エリナとの待ち合わせ場所に遅れないようにする方を優先したのでした。
ばたばたと忙しない足音を廊下に響かせて、ジョナサンは邸を出ていきました。
夕方には帰ると執事に言いましたのを、ディオは玄関の大階段の上から聞いておりました。
小さな手には不釣り合いな大きさの、金色にぴかぴかと光っているジョナサンの時計がありました。
ディオは与えられた自分の部屋に戻りますと、時計を眺めました。
蓋をしめると、新しい時計はつやつやと輝いております。傷一つない滑らかな表面には、ディオの顔が映り込みました。
蓋をあけて、文字盤の針が一秒を刻む毎に動いていく様を、不思議に思いながら見つめました。
そして、名前の部分を指でなぞりました。
「ジョースター、ジョナサン、ジョースター……、ジョナサン……ジョジョ……」
掘られているところがでこぼことして、ディオの指に感触を伝えました。
ディオは、母が恋しくなりました。
父親など、ディオにとってはどうでもよい存在でありましたけれど、ジョージの優しい姿は、本当は父親というのは、ああいう素晴らしい人なのだろうと思い、自分の親を懐かしみました。
母に優しく抱いて貰った記憶や、数えられるほどの少ない大切な思い出を、頭に浮かべては、寂しくなったのでした。
ジョージは、自分を甘やかし、優しくしてくれるけれど、肉親では無いのです。どんなに甘えても、本当の親ではない、子ではないから、ディオは距離を感じておりました。
ジョナサンに時計をプレゼントした時のジョージの和んだ顔を見て、一層ディオは、手を尽くしても、得られない血統を知ったのでありました。
そして、その虚しさ、寂しさは、ジョナサンへ嫌がらせをすることで、紛らわしていたのでした。
時計も盗み出したのも、その嫌がらせのひとつでした。
そして、親子の愛情の証を手にすれば、自分も満たされるのでは無いのかと、幼心にディオは思ったのでした。
日の差し込む部屋で、ディオはうとうとと浅い眠りの中におりました。
柔らかな髪をすく手には覚えがあり、ディオは目を開けたくなりますが、どうしても瞼が重たくて、開けられませんでした。
髪を撫でていた手は、やがて離れ、いつしか遠くへと行ってしまいました。
「母さん……」
母を亡くしてから、まだ一年も経っておりませんでしたので、ディオはもう何度も母の夢を見たのでした。
その夢が、ディオは大嫌いでありました。
目が覚めたとき、幸せな夢が、夢であったのだと知ると、母の居ない現実に絶望を感じて、ディオは必ず涙を流すからでありました。
時計は、ディオのポケットに入ったままでありました。
尻の部分がすこし膨らんで、盛り上がっておりましたが、ディオ以外の誰も気にはしません。
陽が沈む頃、ジョナサンは家に帰ってきました。
機嫌のよい声がしたので、ディオは、なんとも面白くない気持ちになりました。
「ただいま、帰ったよ！」
「ぼっちゃま、お帰りなさいませ。夕食まで時間がありますが、お茶でもいかがですか？」
「うん、そうしようかな！ ぼくお腹すいちゃって」
執事に言われ、ジョナサンは上着を脱いで、真っ直ぐに応接間へ足を運んでいきました。
サンドイッチやクッキーを平らげて、お茶を飲み、小腹を満たすと、ジョナサンはメイドに声をかけました。
「ねえ、あのさ、ディオはどうしてる……？」
小声で尋ねる必要はありませんでしたが、何故かジョナサンはひそひそと声を潜めてメイドの娘に聞いたのでした。
「ディオさま？ 今は、お部屋にいらっしゃるんじゃあないでしょうか。」
「あのね……ダニーをいじめたりしていなかったよね？」
日中、家を開けたので、ディオがジョナサンの居ぬ間にダニーをぶったり蹴ったりしていなかったか、ジョナサンは気になったのでした。
帰宅した際、ダニーに声をかけたときは、しっぽを振って元気そうにジョナサンを迎えてくれたので、おそらく大丈夫だったと思いたかったのですが、念のため周りのものに聞いておくのも必要だと思ったのです。
「まさか！ 今日は……そうですね、お静かに過ごしていらっしゃるようですね、あまりお部屋から出ておりませんし。」
「ふうん……そう、……ありがとう。」
一口、紅茶を飲み、ジョナサンは釈然としないまま、椅子に深く腰をかけ直しました。
――あの悪童が大人しくしているわけないだろう……。
ジョナサンはすっかり、ディオを疑う癖がついておりました。日頃のディオの行いが悪いのもありましたし、ジョナサンは時計を無くしてしまったかもしれない不安感から、悪い妄想ばかりしておりました。
ジョースター卿が帰ってくるまでの間、どうにかして時計を見つけ出さなくては、父に面目無いとジョナサンは少し焦りました。
手当たり次第に、自室を探し回りましたが、やはりあの小さな箱が見つかりません。
箱に収められた大事な時計、父からの贈り物、何よりその気持ちが嬉しかったのでありましたから、時計を無くすということは、父からの思いまで失ってしまうのでは、と恐れたのでした。
「無い……無い……！ 無い……ッ！」
ジョナサンは苛立って思わずクッションをベッドに投げつけました。
「ああ、どうして無いんだッ！」
あと心当たりがあると言えば、……思いたくはありませんでしたが、ディオの所でありました。
あらゆる嫌がらせや、悪戯と言うには過ぎた酷いことをする子でありましたから、ジョナサンが大切にしている物であれば、目をつけない筈がありません。
人は信じるものだと教えられたジョナサンにとって、疑うべきである人間が存在すること自体が脅威でありました。
誰でもそうでしょうが、人を疑って生きていたくはありません。疑いを晴らすためにも、ディオに時計について問いたださなくてはいけませんでした。
「ディオ……ディオ、いるかい？」
扉をノックしても返事はありませんでした。寝ているのかもしれないと、ジョナサンは鍵のかかっていないドアを少しだけ開けました。
「ディオ……？」
「あ！ 勝手に入るなっ！」
ベッドに横になっていたディオは、飛び起きてドアから出てきました。
「聞いていたなら、出てくればいいだろ……」
「うるさいなぁ、何の用だよ」
不貞腐れたディオは、上目遣いでジョナサンにきつい視線を投げておりました。
「ちょっと話があるんだ。」
「ぼくは話なんて無い。」
半分だけドアから出していた体を部屋に引っ込めて、扉を閉めようとしたので、ジョナサンは慌てて戸の隙間に足を挟みました。
「ぼくの！ 時計を知らないか？ 父さんから貰った懐中時計だ。ディオ、君は知ってるね？」
「何のこと？ 知らないね！」
ディオは無理に閉めようとドアノブに力を入れましたが、ジョナサンの太い足はそうはさせてくれませんでした。
「今……正直に話してくれたなら怒らないから、だから返してくれないか？」
つんとそっぽを向いていたディオの目が、一瞬揺らいだのをジョナサンは見逃しませんでした。嘘を吐いたり、何かを誤魔化そうとしたりするとき、必ずディオの目はきょろきょろと落ち着き無く動くのをジョナサンは知っていました。
嘘をついている、となれば確信できました。
間違いなく、ディオはジョナサンの時計を隠し持っているのです。
「さあ、持っているなら、出すんだ！」
ジョナサンは声を荒げました。
「知らない！」
それでもディオは、知らん顔をし続けていました。ドアが、みしみしと音をたてます。
手加減していたジョナサンは、足を一歩踏み出して、ディオの部屋へ入りました。
ドアに押し出されて、ディオはふらついてその場に尻餅をついてしまいました。
「あっ！」
転んだ拍子に、ディオのポケットに入っていた懐中時計は飛び出て、ころころと床に転がりました。
「ああ！ やっぱり！」
丸い形の金色の時計は、紛れもなくジョナサンの時計でありました。すぐに拾い上げようとしましたが、僅かな差で、ディオの手に奪われてしまいました。
「こんなもの！」
ディオは時計を手にすると、窓へ向かって走りました。
開けられた窓から、ディオは時計を外へ放り投げてしまったのでした。
「な！ なんてことをッ！」
ジョナサンはあまりのショックに、それ以上の言葉が出てきませんでした。
そして、ディオを詰るよりも早く時計を探し出さなくては、と考え、投げ出された窓の下、裏庭へと向かいました。
夕暮れの暗くなり始めていた頃でした。
花壇を踏み荒らさないよう注意しながら、ジョナサンは土や泥の中を手探りました。
薄闇の草木の中、手の平に収まる大きさの時計を見つけ出すのは困難でありました。しかし、こればかりは、ジョナサンひとりで見つけ出さなくてはなりませんでした。大ごとにしたくはありませんでしたので、ジョナサンは誰ひとりとして、手伝ってもらうわけにはいきません。
投げられた時の飛び方では、そう遠くまではいってはいないと思いながら、ジョナサンはあたりを見回しました。
目をこらし、腰を曲げ、地べたに這いつくばって、ジョナサンは土の上を探りました。
そして、ジョナサンの服や顔が泥だらけになる頃、きらりと目の中に飛び込んできた金色を見つけました。時計は、あんなにも綺麗に輝いておりましたのに、すっかり汚れきっておりました。無事に、とは言えませんでしたが、それでも、ジョナサンの元に帰ってきてくれたのでした。
落とされてしまった衝撃で秒針は止まっており、傷一つなかった表面には細かい傷がいくつも、あちらこちらにつけられておりました。
ジョナサンは、悔しくて泣きそうになりました。
一体、自分が何をしたというのだろう、と思いました。
何故、こんなにも嫌われなくてはいけないのだろう、とも思いました。
そして、ジョナサンはあることに気がつきました。
自分がディオと同じ年の頃、悪いことをしたとき、父はまず、自分によく言い聞かせました。
それでも、同じ過ちを繰り返したとき、父は、鞭をジョナサンの手に振るいました。
そして、とても悪いことをしたとき、……。
ジョナサンは幼い自分が恐れたあの部屋を思い出していました。
「……そうだ……、ディオは、みんなに甘やかされているから、自分が悪いことをしていると気づいていないんだ……。ならぼくが、それを分からせなくちゃいけないんだ……。」
泥を拭った時計をハンカチに包んでポケットに仕舞い込み、その場からジョナサンはゆっくりと立ち上がりました。
「ディオ……？ 時計、見つけたよ。ぼくなら、怒っていないよ、仲直りしよう、ディオ、ドアをあけてくれないかい？」
子ヤギを騙す狼の気分で、ジョナサンは優しい声色でディオの部屋の戸をノックしました。狼は、チョークで声を変えていたけれど、ジョナサンは心底、相手を愛しているんだと自身に言い聞かせて、甘い声を出しておりました。
ノックと、ジョナサンの甘い台詞は何度も繰り返されました。
そして、ついにドアのそばに足音が近づいてきました。ジョナサンは、より優しく言いました。
「仲直りに、いいものをあげるから、ディオ、出て来てくれないかい……？ お願いだよ。」
見え透いた甘い台詞だと、ジョナサンは内心馬鹿らしくもなりましたが、少年にはこれくらいしか思いつかなったのです。
ですが、かえってその単純な誘惑に、幼子は興味を持ったようでした。
「……なに？」
ディオは、怪訝な顔つきでありましたが、ドアを開いてくれました。
「ここじゃあ無いんだ、秘密の隠し部屋にある。」
「隠し部屋……？」
ジョナサンはしゃがんで、ディオに微笑みかけました。『秘密』、『隠し部屋』、それらのキーワードに好奇心をそそられない少年はおりません。
そして、ディオの手をとり、三階へと連れて行きました。手や服の泥はここへ来る前に綺麗にしてきましたので、ディオはジョナサンの手を嫌がりはしませんでした。
ディオは、言われるままに大人しく手を繋いで、ついてきました。
三階には、図書室に入りきらない本が置かれている、今は物置と化している部屋がありました。
その部屋の本棚の影に隠れて、大人一人が入れるほどの細い入口がありました。
普段、人が近寄らないその隠し部屋は、暗く、埃っぽく、幽霊や魔物でも出てきそうな重い雰囲気がありました。
ジョナサンは、恐ろしい記憶を次第に蘇らせておりました。
『言う事を聞かない悪い子どもは、ご先祖さまにお仕置きしてもらおうか』
『ごめんなさい、言う事を聞くから、だからこの部屋に閉じ込めないで！』
『この前もそう言っていただろう？ 今度はそうはいかない、うんと懲らしめなくてはいけない』
『出して！ 出して！ 父さん！』
ディオと同じか、それより小さかったでしょうか。真っ暗な部屋に夜中閉じ込められて、泣いても、叫んでも誰も助けてくれなかった恐ろしいあの晩のことを、ジョナサンは記憶の片隅に追いやっていたのでした。
「ジョジョ、こんなところに、何があるんだ？ 真っ暗で何も見えない……。」
ディオも他の子どものように、暗闇を恐れました。握った手には汗をかいて、不安げに呼吸を乱しておりました。
「もっと、部屋の奥だよ……。」
闇を恐れなくなったのは、夜に慣れただけかもしれないと、ジョナサンは思っていました。
――暗いのが怖いなんて、ディオもやっぱりみんなと同じ子どもだな……。
部屋には、残酷な道具がいくつもありました。
誰が揃えたのかは、ジョナサンも知りません。父であるかもしれない、祖父であるかもしれない。先代の誰かであるかもしれない。古い屋敷でありましたから珍しいものも、この部屋にはありました。