ゆめかまぼろしか 1
これは昔話になるので、多少記憶の相違があるのだと承知してほしい。日が経つにつれて思い出とは美化されるとよく言ったもので、例に漏れずぼくの海馬も都合よく改竄しているのだろう。
一八八〇年も終わりかけていた、ある冬の日のことだ。
自分は寒さには強いつもりだと、ジョナサンはついこの間まではそう思っていた。何だったら夏服のまま一年を過ごしても大丈夫とさえ思っていたのだ。
防寒対策がきちんと施されているカントリーハウスで生まれ育った人間の寒さとは如何程かと、ディオは顎をしゃくってばかにしている。
「大体な、暖炉の前陣取っておいて、どの口が言う」
「……だっ」
ディオはジョナサンの背中と腰の合間を膝頭で打った。ふたりに喧嘩らしい喧嘩が無くなっても、会話量と同じくしてこういった暴力は行われていた。
ジョナサンだってやられっぱなしともいかないのだが、自身の紳士的思想からするとハンムラビ法典に則るわけにもいかず、大怪我さえしなければこの程度はじゃれあいの範疇とみなしていた。
今日も今日とて痣にならぬ力加減で、ディオはジョナサンの至る箇所を殴ったり蹴ったりやりたい放題に甚振っている。
「仕方ないだろ、今夜は雪が積もるって言ってるんだ」
「雪が、……積もるだって? 嘘つくんじゃあないね、ここ何十年そんな記録は残ってない、そんなのあるわけ無いだろ。5シリング賭けてもいいねッ」
五シリングとはクラウン銀貨一枚のことである。およそ二千円くらいだろう。
「賭け事はもういいよ……」
ボクシングに負けたことでジョナサンは博打からすっかり足を洗っていた。当時、あの月は本当に厳しかった。月末がくるのを指折り数えて待ったのは秘密だ。己の蓄えはあったが、そこに手を出すのは最終手段としていたのでひたすらに耐え忍んだものだった。
「おい、ジョジョ」
また背中を押される、今度は腰椎目掛けて拳がごつと当てられる。
「その話、誰から聞いた」
「雪のこと? ……ええと、メイドたちが噂してて」
「発信源はどこなんだ」
「それは、えー……」
邸に仕えるメイドたちは下は十四才と主に十代の少女から、二十代、三十代、上はふたりの母と同年代ほどの女性たちがいる。みなおしゃべりで、家の方針もあってか気さくに声を掛け合う仲であった。
彼女たちの情報元は大きく三つに分かれる。タイムズ紙をはじめとする新聞や本、メイドたちを取り仕切る家政婦(ハウスキーパー)、そしてジョースター家一番の古株である執事長(バトラー)。
「執事長……、じゃあ、ない……か、な? たぶん、きっと……」
この中で最も有力だと思われるのが執事長なだけで、明確な答えともいかずジョナサンの語尾は曖昧に揺れてしまった。
それでもディオは納得したのか「ふうん」とつまらなそうに一言だけ返事をし、自分の座っていたスツールに戻っていった。
暖炉にくべている薪は、耳障りのいい音を立ててよく燃えている。
――こんな時、以前だったらぼくは何をしていたかな。
ジョナサンは頬杖をつき、ぼんやりした様子で火の動きを見つめた。
父ジョージはひと月ほど前、仕事の都合でインドへ出発したのだった。連絡は一昨日手紙が一通、ジョナサンとディオに宛てたのが届いたきりであった。勉強はしているか、仲良くやっているか、などといつも口にしていることが沢山並んでいる内容であった。
ディオに読むかと聞いたところで返答は「No.」の一言だけだった。しかし予想の範囲だ。もしかしたら気が向いて読みたくなるかもしれない、ジョナサンはそれとなく見える場所に手紙を置いておいたのだ。
数日が経過した現在、気遣いも虚しく手紙は置いた時と変わらず居間の飾り棚の上にある。ジョナサンには非など全く無いのだが、動かされた様子の無い手紙を目にする度に父に申し訳ないと思った。
父もいない、出かける用事もない、そんな日はダニーが居れば庭で遊んだりしただろう。――だが裏庭には真新しい墓標が立っている。それを見るたびにジョナサンの胸の中には、すうすうとした風が虚しく通り抜けるのだ。
――やめだ、もっと違うことを考えよう。
傷は癒えかけども瘡蓋は完全に乾いていない、ジョナサンは陰鬱とした気を払うように立ち上がった。
部屋の窓に手をつき、ハァっとこもった息をはく。白く曇った窓硝子は外気の冷たさを教えてくれた。
見上げれば雲はダークグレーに染まりながら空を暗くさせている。ジョナサンは瞳を凝らしてさらに上へと視線を注ぐ。
点々と埃ほどに小さく、注意深く見なければ分からないような白の粒がゆらりゆらりと舞い始める。
「あ、」
素っ頓狂なジョナサンの声に、ディオはピクリと眉を動かした。本を片手に持ち一人用のミニテーブルに肘をかけながら、目だけがその方へ向く。
「雪だ……」
言われて思わず窓へと体が動いた。暖かな室内から眺める降雪とは、なんとも贅沢だとディオはしばし見とれていた。
会話は無かった、部屋はとても静かであった。
薪がはぜる音とディオが本のページをめくる音だけがしている。こんな時も悪くないと、暖炉前に置かれたソファに深く沈んだジョナサンはその微睡みに体を委ねていった。
やがて夕食が済み、風呂も済んだ、あとはもう寝るだけだった。
雪は順調に降り積もっているようで、ちょっと目を離しただけで窓の外は純白が支配していた。
夜は遠くまでは見通せないので、邸の周辺しか確認は出来ないが、きっと今頃街中が真っ白に染まっているだろう、ジョナサンは早くその景色を味わいたくなった。
雪が降るということ自体は、大して珍しくはないのだが、昼間ディオが言っていた通り「積もる」ことが滅多にないのであった。
果たして自分たちが生まれてから、こんな大雪などあったのだろうか。雪ですらここ数年見かけていない程だ。恐らく無いだろう。無いはずだ。
確かに寒いし、ディオ曰く「雪なんて冷たくて邪魔」なんだろうけど、普段見慣れた場所や街が色を姿を変える様には心が躍る。
年甲斐もなくジョナサンは浮かれていた。全くのん気であった、彼は寒さに対してもやはり「大甘ちゃん」なのである。
窓に張り付き、小さな子どもがするような遊びで白く曇った窓に指で絵を描く。雪は、昼間とは変わって埃から飴玉くらいに大きくなっている。
どこまで大きさを増していくのだろう。夢中になって観察を続ければ、時間はどんどん過ぎていった。
「ぼっちゃま」
幼い頃のジョナサンは、一人でいるとよく心を宙に飛ばした。寂しいとき、ぼんやりしたいとき、なにかを考えるとき、意識そのものを遠くにやる感覚だ。
そうすると、ふわっとするのだ。体全体が楽になって、空想の世界に入り込んでいく。そうなると、つまりなかなか声が届かなくなるのだそうだ。
「……ぼっちゃま?」
他人からすると、寝ているようにも見えるらしい。稀に目を開けたまま眠る人間がいると聞くが、流石にそんな器用な真似は出来なかった。
心ここにあらず。恐らくそういった状態だろう。
「…………」
執事は、こんなこともう慣れっこである。対処法はまず手を打ち、大きな音を立てること。
――パン!
ジョナサンの肩が、その音に反応して揺れる。ぼんやりしていた目に、魂が戻ったように生気が宿る。
「ジョジョぼっちゃま」
「え、ああ、うん?」
何度かしばたたかせた後に、少し驚いてジョナサンは執事に返事をした。老執事は、微妙な笑みをして頭を下げる。
「どうかしたのかい?」
「ぼっちゃま、非常に申し上げにくいのですが……悪いお知らせがあります」
「……え」
執事はどこかがっくりと肩を落としている上に、ズボンの裾やコートの袖が湿っぽく濡れていて、顔には疲労の色が窺える。何が悪いのか、流石のジョナサンも予想が出来た。
「我々も力を尽くしたのですが、……この雪の所為で……」
「雪の、……所為で?」
決して勿体つけているのではない。執事は言うのも躊躇われた。出来ることなら言いたくないと思っているのだ。
「セラーにあった薪が全て……、この雪にやられてしまいまして……」
「えっ? えええ?!」
「今邸にあるのが、『全て』で御座います……」
「それは、つまり、今ぼくの部屋で消えかかっているのは……」
「申し訳ありません!ジョジョぼっちゃま!」
執事の腰はこれでもかと曲がりに曲がった。慌ててジョナサンは頭をあげるよう促し、顔を合わせたのだった。
部屋の暖炉は火が燻り始めている、寝る前ならもう消してもいいだろう。それは普段なら、だ。
今夜は大雪、大寒波だ。下手したら死ぬ。いや、これは間違いなく死活問題だ。ジョナサンの身は気が早く、鳥肌を勝手に立てていた。
「ですが、良い知らせも御座います!」
ぱっと表情を変えて、執事は困り眉で笑ってみせた。どうにも「良いニュース」とは思えなかった。なんともスッキリしない笑みなのだ。
「ディオさんのお部屋には、まだ薪があるのです!」
ジョナサンは、青ざめた。
「このことをお伝えしましたら、すぐにジョジョぼっちゃまをお部屋に呼ぶようにと仰られました。なんとお心優しいのでしょう、美しい兄弟愛でありますな。いやはや、全く、涙が出てしまいそうです」
ジョナサンは、目眩がした。
「あの、それ……、ぼくがディオの部屋で、一晩……」
「ああ!不手際をお許し下さい、ぼっちゃま!きちんと管理をしていなかった我々の責任で御座います、ぼっちゃまたちを凍えさすことなど旦那さまご不在時の今、あってはならぬこと……、いざとなれば椅子でも机でも燃やしましょう!」
「わ、わ、わ……分かった!分かったよ!ぼくがディオの部屋に行けばいいんだよね、それで問題無いんだ!分かった、オー・ケー、ノープロブレムだ!」
脅しまがいの泣き落としに負けたジョナサンは、許諾するしかなかった。完全に口角は引きつって、頭痛と耳鳴りと、ついでに歯も痛みだしていた。
――な、泣きたいのはこっちだ……ッ!!!義兄弟とは言え、同い年の男の子で、しかも乱暴者で自分を嫌っていて、あのディオで、同年齢の少年で、つまり男で、ディオで、……そんなやつと、一晩過ごせと言われても、待っているのは地獄じゃあないか! どうする、どうする、どうする、まだ部屋は充分に暖かい、なら、今すぐありったけの布団にくるまって、顔も手足も出さずに朝を待てば、案外平気かもしれない。いやもうそれでいこう。絶対それがいい。
この間、たった0、5秒である。平静を装った面の下で、必死に頭を回転させたのだ。着れるだけ服を着て、あるだけの布団を重ねれば、死にはしないだろう。多分。
「ちょっと待って、やっぱりぼく……」
――コンコンコン!
会話を遮って部屋の扉がノックされる。執事はジョナサンが遠まわしに制止するのを聞かず開け放ってしまった。
ジョナサンの目には、扉が開かれるその一瞬は至極スローリーに見えたのだと言う。
扉の前に立っていた人物とは――勿論言うまでも無く、獲物を見据えた琥珀の眼の少年、ディオであった。
ジョナサンの頭の中には、かの有名なシューベルトが1815年に作曲した「魔王」が流れ、更に恐怖心を煽っていた……。
「やあ、ジョジョォ……あまりに君が遅いから、このぼくが直々に迎えにきてやったよ。ありがたく思えよなぁ……?」
――おとうさん、おとうさん、魔王が来たよ……ぼくを連れ去って行くよ……。
「う、あ、いや、あの、」
ジョナサンはあからさまに狼狽えていた。
「おお、わざわざ迎えにまで!誠にお優しい限りでありますな、ディオさんは!さぁさ、ぼっちゃま、部屋が冷え切る前に、ディオさんのお部屋に」
「優しいだなんて、テレるな。父さんが家を開けてる今はたった二人の家族なんだ、助け合うのは当然だろ、なぁジョジョ?」
ディオはお得意の猫かぶりで執事に応える。が、ジョナサンの方へくるりと向くと、にいっと唇を歪ませるのだ。
「あ、う、い……ハ、ハイ」
この時のジョナサンの心境は、まさに蛇に睨まれた蛙だった。
「あはは、どうしたんだ、『ハイ』だなんて」
「ははは、そうですよ、ぼっちゃまらしくもない」
「アハハ、そうだよね、はは、おかしいなー……」
「「「ワッハッハッ!」」」
一同笑い。
この時のジョナサンの心境は、市場に売り出される為に荷車に乗せられていく仔牛と同じであった。さっきから動物にばかり形容している。
自分がいっそ牛なら、踏ん張ってここに留まりも出来るだろう。しかし有りもしない空想は役に立たない。ジョナサンは人間で、言葉が通ずる上に、市場に売られに行くのでもないし、荷車にも乗せられていない。
自らの足で動き出し従っているのだ。言い訳も無駄、拒む理由を言ったって無駄、頭を回せどもディオの口に勝てる見込みすら無かった。
――……法廷弁護士を目指して法律を勉強してる相手に、言論で勝てっていうのが無理な話だろ。
弁が立つディオの台詞には、ぐうの音も出なかった。彼の言い分は全く以て正しいのだから。
『父が家を開けている今、たった二人の家族』『家族が助け合う』、百パーセント同意であった。
ただディオが言うと、その健全な思想もぶち壊しになる。絶対に良からぬ予感しかない。
――主よ、偉大なる父よ、どうか我が身をお守り下さい……。
大変情けないことに、この時のジョナサンに出来ることは神頼みくらいしか残されていなかった。
「ふっ……くくっ」
前室の(部屋の前にある個室、物置状態になっている。)扉を閉めた途端に、ディオは堪えきれないといった様子で肩を震わせ笑う。
ジョナサンは声なんてかけたくなくて、そのぷるぷる震える背を見て黙っていた。
「傑作だな、ああ、おかしい。ふふっ」
目尻をぬぐう仕草をして、ディオはやっと部屋へ入る。やはり黙ったままジョナサンはとぼとぼと後に続いた。
「すっかり邸の連中はこのディオを、優しくて頭が良い素晴らしい人間だと思っているようだな。あの執事ときたら……ふふふ」
「……詐欺師……」
心の声は自然と零れおちた。
「ンー? 何だってぇ? きさまがそんなこと言える立場か?」
ディオはジョナサンのふくふくとした頬っぺたをつねり上げる。
――別にぼくは頼んでないし、むしろ嫌だったのに。
と、言えればいいのだが、そんな元気は無かった。これ以上揉めても疲れるだけだ。対ディオには、本気にならないことが鉄則である。
「ふん、まあいい。……暖炉を見ろ」
指差す暖炉には、まだ火が燃えている。確かに薪が残っていた。
「夕方からしか使ってない、朝まで持つかは分からんがな」
薪がひとつ燃え尽きるまで、正確に時間を計ったことなんてない。まず薪が足りないなんて経験もないからだ。
火は穏やかに燃える、暖炉の真ん前までくれば暖かさを感じられた。そこで始めてジョナサンは違和感に気がついた。
「なんか寒いね、この部屋」
「ああ、カーテンだ」
ディオが目をやる大窓のカーテンまで近寄り、それに触れて「あ」と小さく驚きの声が上がる。
「これ、随分薄手じゃあないか」
元々この部屋の住人は、もう何年、十何年といなかった。以前使われた時からずっとそのままにしてあったカーテンは古く、かび臭くなっていたので、ディオがこの邸に来るのだとと決まってから全て取り外された。
そして新しい持ち主のために誂えられたカーテンは、春に似合う白であった。透かしレースの上品で繊細な作りは、春そして夏の季節には、風に揺れるその様子は見るものを爽やかな気分にさせるだろう。
その季節には丁度良かった、だがカーテンは秋を越し、冬に至るまでそこにあった。
「何で言わなかったの」
「別に、不自由してなかったからな。今日の今日までは」
ディオとは、こういう性格なのか。それとも季節ごとに変える必要があるということを、知らなかったのだろうか。ジョナサンとしては、後者のほうが望ましく思う。(後になって知るのだが、使用人が取り替えようとしていたのを、ディオ自身がやめさせたらしい。彼は、その白を気に入っていたのだ。)
カーテンの向こう側、銀世界は硝子窓一枚隔てて存在している。
薪の残るディオの部屋とカーテンの厚いジョナサンの部屋、どちらがより寒さを凌げるだろう。
「あのさぁ、ディオ……」
「おい」
このグズめと言いたげにディオはベッドへ来いと顎で合図する。不満だったが、仕方なくジョナサンはそこへ行った。
「これを寄せる、君はそっちを持て」
「暖炉の前まで? それは流石に」
「その無駄な腕力、こんな時くらい活用したらどうだ」
「……分かったよ」
部屋の中央に位置しているベッドは、大きいといってもディオとジョナサンが全力を尽くせば動かせないことも無かった。
押して移動させるくらいは可能だろう。
「んぐぐぐ……」
「んン……ッ」
床板がみしみし音を立てて、軋んでいる。敷いていた絨毯がいくらかずれて、不格好だったが何とかいい場所まで運べ、ふたりは息をはいた。
ほんの一瞬だけ体が熱を持つ。力をくわえた箇所は体温を高めてくれる。久しぶりの発汗であった。
だけど、たった一瞬のこと。冷気は容赦なく襲ってきて、汗をかいた場所から余計に体が冷え縮まりそうになる。
「ディオ、」ジョナサンは呼ぶ。
頭と体の接続線をぎりぎりまで、伸ばして細めて、身体と心を切り離す。
ここがどこで、このベッドは誰ので、一緒に寝るのが誰とか、ジョナサンは一切気にしないことにした。たった今そう決めた。
無だ。
「もう寝よう」
ジョナサンは、暖炉のそばで多少暖められた掛け布団をもそもそと捲って、室内履きを脱ぐ。
「…………、なぁ」
「うん?」
「誰がそこで寝ていいと許可した」
「……へ?」
腕を組み、不機嫌の空気を纏ったディオは、自分のベッドに腰掛けた。ジョナサンは足から冷えていくのが分かった。
「もう用は済んだ、帰れ」
「えええ?!」
「あ、何勝手に入ってるんだっ!」
あんまりだと思った。
あんまりだぁと叫んで泣き出したくもなるものだ。
ディオが腕をぐいぐい引っ張るのを無視して、布団の谷間の毛布の海へと潜り込む。ふかふかとぬくもったそこはもう離れがたい。それらに愛しさすら芽生える。
「大体きみが、来いって言ったんだろ」
「これを運ぶ口実に決まってるだろ、間抜け!」
「だったらフットマンに言えばいいじゃあないかッ!」
「そんなのぼくの勝手だ、おまえの指図なんてうけない!」
――わかったぞ、自分の立場をより優位にしようと、兄弟思いなところをわざわざ執事に見せつけるためにしたんだな。ぼくが断れないよう言いくるめて。そのあとで、こうやって突き放せば、ぼくにダメージを与えられると踏んで!
ジョナサンはシーツに噛み付く勢いでしがみついていた。
寒さやら怒りやらでまともな考えは吹っ飛んでしまっていた。初めから言う事など聞くべきではなかったのだ。だったらもう絶対にディオの言う事など聞くものかと意地になっていた。
「ここはぼくのベットだ、出てけったら!」
「イヤだ、寒い!!」
「この……馬鹿力め……、クソッ!」
髪やら腕やら耳やら、掴める場所をどこでもいいから手にして引っ張って、叩いてつねっても、ジョナサンは頑なに動かない。
「イヤだ、寒い!」ジョナサンはディオに何を言われても、この二言以外口にしなくなった。
体重の増えてきているジョナサンを持ち上げることは不可能で、それはそれはもう盛大な舌打ちをしてディオはついに諦めた。。
罵声と攻撃が止み、ジョナサンは体から力が抜けていく。強ばりきっていた指先がじんと血が通った感覚がして、砲撃が止まった時の戦場の兵士の気持ちが分かった気がした。
――勝った……。
この寝床は、勝ち取ったものだ。
安堵が全身に広がれば、柔らかい布団は肉体を眠りの世界へといざなう。
――パチ パチ パチ
薪のはぜる音はまるで勝利したジョナサンに向ける祝福の拍手に聞こえた。
夜中の真っ只中、真夜中。
ぐっと血が、体温が下がる気配で、ジョナサンは目を覚ます。
夏でも布団を蹴り飛ばしたおかげで体が冷えて覚醒するのはよくあることで、これもそうかと思ったが、違った。
頭からつま先まで、きっちりと体は布団や毛布に収まっていて、冷気から身を守っている。ならこの冷えはなんだと、疑問が浮かぶ。
一旦震えだすと、コントロールがきかずガクガクと体全体が揺れ始めた。
ジョナサンは自分を抱きしめた。潜在的防衛能力とでもいうのだろうか、膝を丸めて腰を曲げ、胎児のように体を縮こませる。
残る熱を僅かほどにも逃さぬように、もっと芯を守るように。
妙だった、布団の中は確かなぬくもりが肌に感じられて、そこは暖かいのだ。
なのに、冷える、冷たくなる。もしかしたら、この体はすでに死の入口に立っているんじゃあないかと、脅えるくらい。
「……ジョジョ」
くぐもったディオの声が同じ布団の中で名前を呼ぶ。ほんのりと苛立ちが含まれているまさに寝起きの声だ。
「鬱陶しい」
衣擦れがしている。ジョナサンが震えるせいでベッドが揺れているからだ。
振動が伝わるのだろう、不本意に起こされれば機嫌を損ねるのは誰だってそうだ。
謝ろうとして、ジョナサンは唇がうまく動かせないことに気がついた。歯の根が合わないのだ。
「……おい。なんだ……」
返事がないので、短気なディオは痺れを切らして布団を捲った。
「あ!だめ!」
つい大声が出てしまった。布団を瞬時に戻して、すぐに潜り込む。たったそれだけの動作でも風が巻き起こって、寒さが増す。ゾクゾクと背筋に寒気が走った。
ディオは暗闇に目を凝らして暖炉を覗いた。小さな火がほんの微量の薪に灯っている。消える寸前であった。
――こいつ、暖炉のない生活したことないな……。このぐらいなんだって言うんだ。惰弱者め。
「うるさいなァ、それやめろよ」
ぶるぶると震えのおさまらないジョナサンから出される音は神経質なディオにとって、最も苛々させられるものだった。
恋人の甘い囁きだったらいくらでも聞きたいが、悲しいかな相手はこの世で一番苦手な少年である。
うんざりしていた。ジョナサンだけでなく、ディオもだ。ふたりとも冬が嫌いになりそうだった。
「う……っ?」
目の前に置いてあった急に手が引っ張られて、ディオは目を見開いた。
熱を探し求めたジョナサンが無意識にとった行動であった。骨のしっかりした手指が、ディオの白い手にがっちりと絡まる。
この場合、本来ならばディオという人物の対処は、罵声を浴びせ、手を乱暴に振り払って、はたくのだろう。さらに付け加えるなら、「このゴミクズが何をする!」とでも言ってビンタのひとつやふたつ躊躇いなくかますだろう。
だが、しなかった。出来なかった。
ディオは、思い出していた。
ずっと前のこんな夜を、さほど遠くはない日の、決して帰ってこないあの晩を。
その頃は、まだ父親の店があり、母が生きていた。
店の奥に住まいがあり、お世辞にも「きちんと」した家とは言えなかったが、まだ家庭は順調だったのだ。
世間の明暗の区別もつかない年端であったディオには、無垢さがあった。
今夜と比べれば、寒さは大したことはない冬の夜。だが荒屋同然の作りでは、凌げるものも凌げなく。
家族は、かたまって、くっついて、身を寄せ合い、抱きしめ合って眠っていた。
この世にたった3人しかいないような、侘しい夜。
愛し合い、慈しみあうような、優しさとぬくもりが確かにそこに存在していた夜。
父と母の愛情が感じられていた。まだその時は……だ。
らしくもなくディオは感傷的になっていた。
母の記憶はどれも、切ない。
彼の心の、一番きれいな部分にずっと残っている面影だった。そこにふれると、ディオはたちまち弱くなってしまう。
決して誰にも汚せない場所、自分で捨てることも出来ない弱くて脆いもの。
だから、ディオは黙っていた。
互いの体温が混じり、同じ温度になる。
藁にも縋るとは、このことかとジョナサンは身を以て体験していた。
ディオがだんまりを貫いているので、もしや眠ったのかとそっと窺ってみる。気配からは察すると寝てはいない様子だった。
ただ依然として震えは続いている。体の機能が壊れるのではないかと思うほどに。
やがてディオは、決心して、息を吸った。その音はジョナサンの耳にも入った。
「え?」
手の熱とは段違いのあったかさがジョナサンの手の皮膚を包んだ。
するんと、どこかにくるまれる。声を出すより早く、ディオの体臭を感じた。
「わ、あ……!」
「うるさい」
ジョナサンはディオの腹に触れている。寝巻きの中、直接素肌が手に当たっているのだ。手は招き入れられたのだった。
驚きで、心拍数が上昇する。
それだけではない。ディオはジョナサンの頭を引き寄せて、胸にいだいて居る。
声は息があたって頭上に落ちる。
――なんだ、これ……。どういうわけだ。ディオは何を企んでるんだ……。
疑心暗鬼になってしまったジョナサンは、素直に受け止めきれなかった。行為の裏に隠されている真意を読み取ろうと考える。
だけど人肌は、想像以上に気持ちが良くて、意識がそちらばかりに集中して考えがまとまらない。
やわらかい、あたたかい、いい気分だ。
この腕の中は、この世で一番苦手で、憎しみすら持つ相手なのに、……今夜はばかりはダメだった。
晒された肌に逆らえない。たとえディオであっても。
それほどに限界だった。
だがディオの優しさ(と呼んでいいものなのか、微妙ではあるが。)には心は惑っていた。
時計、ダニー、エリナ、キス、ボクシング、告げ口……。
おまじないのように、降って湧いたキーワードはぐるぐるとジョナサンの思考をめぐる。
エリナ、キス、告げ口、ボクシング、ダニー、時計……。
ジョナサンの中で誰かが警告をしている。思い出してみろと言わんばかりに、次々と表れるキーワード。
だけれども、ジョナサンにはもうそんなの意味が無かった。
ジョナサンは放棄した。
考えること、疑うこと、憎むこと、それら全てを。
今夜だけでもいい、目の前の熱を信じよう。
すとんと心に落とした言葉が、体の至るところを弛緩させていった。
「さむい……」
「うん」
ふたりは、足を絡ませてお互いを掴んで、顔だけはくっつけない様にしている。端からみると滑稽な形で横たわっていた。
完全に暖炉の薪は消え、しんと静かな部屋に小さな話し声だけがあった。
うとうととしかけると、ひやりとした空気に強引に眠気を覚まされる。ジョナサンは、どうにも危機感を拭えなかった。
ここで眠ったら、死ぬかもしれないと思った。それほどに冷たい空気だった。
腕の中にある相手の体温だけが、かろうじて生命の息吹を感じさせてくれる。死の淵とはきっとこんな風に冷たくて暗いのだ。闇と雪がとても似合う、誰もいない寂しい国。
死の実感はとてつもなく恐ろしかった、身近にはない恐怖だった。このまま朝日を拝めるまで、じっと耐えなくてはいけないのか。たったの一夜が途方もない時間に思えた。
ふう、とディオが詰めた息を漏らす。ジョナサンのつむじにそれはかかった。
「もう眠いな……」
ディオはあくびを噛み殺したような声でつぶやいた。いけないとジョナサンは顔を持ち上げて
「あ、ダメだ、ダメダメ!このまま……朝になったら死んでいた、なんてことも有り得るだろ、ああっディオ、ダメだったら、起きてくれ!」
と、ディオの体を揺さぶった。かくんと首が下に向いて、目が座りかけているディオはむっつりと言う。
「うるさいな、ぼくは君より2時間も早く起きてるんだから、眠いんだ」
とうとう大あくびをして、目尻にはうっすらと生理的な涙も浮かんだ。
「2時間も? 一体どうして?」
「勉強に決まってるだろ、このアホウ」
――やっぱりディオはディオだ。勤勉で、努力を惜しまない。凄いひとなんだ。
苦手で嫌なやつだと思うのと、優れている彼自身の一面を尊敬するのはまた別としてジョナサンは捉える。
ジョナサンは素直で実直な性分であり、そういった部分が長所である。だが、そこがディオにつけ入れらてしまうウイークポイントでもあった。
「法律は難しいかい?」
「ん、覚えることが多いな」
「そう……」
普段ろくに話さない所為で話題もなく、会話はすぐに途切れてしまった。沈黙は重たくジョナサンにプレッシャーを与えた。
「…………」
「あ、だから、ダメだってば。目を開けてくれ、ディオ!」
「もういいだろ、寝させろ」
ディオは目を閉じたまま、容赦なく体を揺する相手の足を力なく蹴った。
「とにかく今夜だけは頼むよ、ぼくだって……こわいんだ」
言いたくはなかったのに、弱音がぽろっと出てしまった。ジョナサンがディオに一番見せてはいけないのは、弱味である。この半年、たった数ヶ月過ごしただけだが、ジョナサンがディオに対して学習したことだった。
そんな弱点を隙があればすぐにつついてくる。時には、つつくなんて甘くなく、ざっくり抉って打ちのめさんとする。最近はその攻撃も大分落ち着きを見せてはいたのだが、やっぱり弱気などは見せたくない。少年の、男としてのプライドでもあった。
「あのなぁ、ジョジョ。こうしてくっついていれば、ある程度体温は保っていられるんだ。これから朝になれば陽も出る。これ以上気温は下がらない、つまり死ぬことなんて無い。いいか、分かったか?」
聞き分けのない子に説教する母親と同じ口ぶりで、ディオはヒステリックに続けた。
「このチンケな脳みそで理解出来たなら、二度とそんな減らず口を叩くんじゃあないッ!」
白魚の人差し指で、ディオはジョナサンのつるりとした額を弾く。反射で目をぎゅっと強く瞑ってしまったジョナサンは、でも、だってと口を挟んだ。
「もしも、もしも、……じゃあ君が死んでしまったら、ぼくはどうしたらいい?」
苛立ちを隠さないディオはそろそろ我慢がきかなくなりそうだった。
「おまえ……いい加減に、」
「『絶対』とは、言い切れないだろ、可能性はゼロじゃあないんだ…………ぼくは、こわい」
家族や肉親というものが、急にいなくなる怖さをジョナサンは生まれたときから持っている。物心などついていなかったはずの事故の日を、細胞が記憶としてジョナサンに知らせているのかもしれない。
「ならどうしろって言うんだ、徹夜で君とずうっとおしゃべりでもしてろって? お断りだね!」
「……うっ、ええと……それは…………」
ディオは、鬱陶しげに腕を離し、そっぽを向く。体はぴたりとくっついていたが、表情は分からなかった。
「ああ、でもひとつだけあったな、やること」
ディオは高い声で告げた。
「何?」
「セックス」
「……う、え…………ええっっ?!」
誰と、誰が、と間の抜けた質問をしそうになったジョナサンはどうみても混乱していた。顔が熱くもないのに赤くなる。大きな丸い目は、零れそうに剥きだした。
「……っく、アハハハハ!ハハハッ!バッカだなぁ、ハハハ!……そんな顔、ハハッ、見たことないぞ、ひどいな、アハハ!」
おかしくて仕方ないと、腹を手で押さえてディオは屈託なく笑った。内容は馬鹿にしているのだけどからっとして、嫌味がない。
「な、……うう……ディオッ!そういったこと軽々しく口にしてはいけないよ!」
「ガキだな、ああ乳臭い。何が「いけないよ」だぁ、ハハハ!もしかして言えないんじゃあないのか? 言ってみろよ、なぁ、セックスだよ。セッ、ク、ス」
馴染みのない性行為を表す単語を連呼され、ジョナサンは耳から首までを赤くしていた。その明らかに動揺した様子を見てディオは益々腹を抱える。
けらけらと高く笑い声を出しているディオの唇を見て、ジョナサンは、「セックス」と言う単語そのものを恥とは思わなかった。
その卑猥な用語を下品に発している幼いディオの声に情欲が掻き立てられるという事実に、人知れず胸を苦しめて、顔を熱くさせたのだった。
「勘弁してくれよ、ディオ……」
片手で、顔半分を覆えばじんじんと熱が伝わる。一気に体温が上がったのがまさに手に取るように分かった。
「ふふふっ。いい反応だぜ、ジョージョー。男をその気にさせる才能があるんじゃあないか?」
嫌がる反応をしっかり見たくてディオはずりずりと体をジョナサンの位置まで下げて、皮肉たっぷりに歪んだ笑顔で覗く。
「な、なんだい、それ……よしてくれ」
「そうそう、その顔だ、それだよ、それ。君、ガタイもいいし、打って付けだな」
「男をって……」
何だか妙に引っ掛かる言動だった。――「男を、その気に」とディオは言った。それはどういう意味なんだろう。じゃあ、ディオは自身の男の部分がその気になったって言うんだろうか?
「ディオが……、そう思うのかい?」
「はぁ?」
「君が、そう、思ったの?」
一節一節を区切って話し尋ねた。わけが分からないと、怪訝そうにジョナサンを見つめるディオの顔色は、だんだん悪くなってきた。
「ねえ、どうなの?」
さっきまで笑い飛ばしてばかにして、心底嬉しそうに見下していたのに、突如詰め寄られて、ディオはさっと表情を曇らせた。
「たとえだろ、例え」
「普通の男はそんなコト考えない」
「君の普通ってやつと世間は違うんだよ、ジョジョぼっ、ちゃ、ま」
ディオが翳った顔を見せたのは、ほんのわずかであった。すぐにいつもの調子を取り戻せば、甘たっるい言い方で人を小馬鹿にした台詞をすらすら述べる。
答えになっていない返事に納得のいかなかったジョナサンは、諦めなかった。
湧き上がる感情の名前もまだ知らない。強気になって続ける。
「知ってるんだね」
「?」
「男と、男の事情」
「何の話だ」
「ディオは分かってるんだろ。知っているんだ、その世間、世界ってやつをさ」
二人は声のトーンが低くなる。出来るだけ無感情に、静かに会話は進められる。
「ぼくは……ストレートだ……、……異性愛者だ……」
「……? 何だい、それ。どうして言うの、当たり前だろ?」
ジョナサン自身に悪気は無かった、だがディオにはかまととぶって自分を欺いているのだと思ってしまった。怒りの沸点の低いディオにとっては、それだけで十分だった。
「……だったら、……」
ゆら、と手は上がった。
「だったら、その目をやめろぉッッ!!!!」
――バチィンッッ!!
頬を打った音は実に乾いて良い音だった。恐らく打った人間の掌も痛かったのだろうと思うような、大きな音であった。
「っつう…いきなり何するんだ……、全く」
ジョナサンは怯まなかった。変わらず毅然としていた。頬を打たれるのにも慣れていたし、むしろ拳で殴り抜けられなかっただけましとすら思えていた。
「おまえが気に食わない目をするからだッ」
「理不尽だな……」
ディオは、寝返りをうち、再び背を向けた。ただただ、無駄に体力をつかってしまった。こんなやりとりには飽き飽きしているのに、何度も何度も繰り返してしまう。ディオは、刃向かうジョナサンが気に入らないし。ジョナサンは、何事にも突っかかってくるディオに怒りを覚える。
そしてついに、ふたりの体は離れてしまった。つい先ほどまで触れ合っていた身体がないことに、肉体だけが追いつかない。
肌は寂しく冷えていった。