ずるずる続編1
いつからだったろうか。当たり前のように触れ合ったいたはずだったのに、大人に近づくにつれて、ぼくは彼と自然に接することが出来なくなって行った。
避けるようになり、離れるようになり、ぼく達は本来の兄弟らしい関係に戻っていった。
この件について、どちらも口には出さなかったし、出せなかった。
ディオは夜会で知り合った淑女と付き合うようになり、ぼくはパーティーで父から紹介された同じ年の女の子と友だちになった。それが、二、三年前の話だ。
「これでいいんだ」
引き出しにしまったままの宛名のない手紙を、ぼくはいつまでも捨てられずにいる。
”ぼくは今でも君のことが一番好きだ。それがぼくの心からの真実です”
君、の文字をなぞった。
あの時からぼくはずっと変わらずに恋をしている。
「ただいま!」
久しぶりのジョースター邸だった。寄宿舎に入る気は無かったのだけれど、先生の勧めもあって、二年半ほど寮生活を送っていた。
とうさんは反対した。仕事で留守にする機会が多いから、ぼくが寄宿舎に入ったらますます会えなくなると寂しがった。
ディオ……ぼくの義兄は賛成した。
「いいじゃあないか。ぼくは寮生活に憧れてたよ。勿論、ジョースターの邸が一番なのは揺るがないさ。でもあの時は、寮暮らしの奴らが羨ましかったよ。ジョナサンだって経験してみればいいと思うよ」
当時は後押ししてくれたことが嬉しいような気もしていたし、自分を遠ざけようとしているんじゃあ無いかと邪推もしたりした。
けれど、最終的には自分まで決めたことだったので、ぼくは元気よく家を出た。
季節ごとの長期休暇には邸には戻っていたし、家族とも過ごしていたので、懐かしさがこみ上げる……なんてことはない。
「ジョジョぼっちゃま、お帰りなさいませ……おお、また背が伸びましたかな」
執事が出迎えてくれると、鞄を受け取りぼくを見上げる。
「そう?……そういえば前に作ったこのジャケットも少し窮屈、かな?」
一年前に仕立ててもらったジャケットの袖が短く感じる。肩周りも僅かに動かしづらい。
「昨年、旦那さまの背も追い越しましたしなあ。ぼっちゃまは十八になられたばかりですから、まだまだ成長されるんでしょうなあ」
「着るものに困るから、もう身長はこれ以上伸びなくてもいいかな」
「早速サイズを測り直して、一式作らせましょう。サイズの合っていないスーツをシャツをジョースターのご子息がお召しになっていたと言われては、じいはぼっちゃまに面目ありません」
執事が側立っていたフットマンに合図をすると、何やら奥の部屋で慌ただしくメイドが用意を始めだした。
「……えっと、とうさんは?」
「お帰りは夕食前になるそうですよ」
「そうかい……じゃあ、」
「おや、客人かい?」
大階段を降りてくるリズミカルな靴音がして、ぼくはそちらに目を向けた。
「やあ、ジョジョ。何ヶ月ぶりかな」
「半年と一週間」
「おかえり、我が弟よ」
貼り付けたような笑顔は、到底家族にするようなものとは思えない完璧さだった。
「ただいま、ディオにいさん」
お決まりのやりとりは、軽くハグをしてからディオがぼくの頬に鼻先をつける。親愛の挨拶だ。
「疲れたろう? ゆっくり部屋で休めよ。執事、帰ってきたばかりなんだ、寸法は後にしてやれ」
「そうですね。では、ぼっちゃま。お茶をお淹れ致しますから、お部屋にお持ちしましょうか」
「うん、頼むよ」
すると、先ほどのフットマンは奥で忙しなく動いているメイドたちに何かを言っているようだった。ぼくは横目で確認した。
執事はぼくの鞄を持って、使用人棟へと戻って行く。中に入っている着替えを洗濯室に、鞄の手入れは自室で行うらしい。
私物は殆ど寮部屋に置いてきているし、必要なものも自室に揃っている。時計やペンはジャケットのポケットに仕舞ってあるから、ぼくはそのまま階段を上がった。
隣に立ったディオが口を開く。
「……日に焼けたな」
「うん。赤い?」
「いや、いいんじゃあないか。健康的で」
「あのさ」
「何だ」
「今って忙しい?」
「そう見えるか?」
「ううん」
「……おまえ、レディに対してもそんなまどろっこしい言い方してるんじゃあないだろうな」
ディオは手にしていた厚手の専門書か何かで、ぼくの肩を叩いた。
「へっ、えっ? 何でそういう話になるんだい」
「誘い方が下手だって言ってるんだ」
「さ、……さそっ」
ぼくが思わず口ごもっていると、ディオは先ほどまでの嘘みたいな笑顔とは違って、本気で吹き出して笑った。
「くくっ、体ばっかり大きくなってもまだ中身はガキだな。狙っている相手は多少は強引なくらいじゃなきゃ逃げられちまうぜ」
「ぼくが、ディオとお茶したいっていつ分かったの……」
照れくさくなってぼくは頬を指先で掻いた。ディオは片方の眉を上げて、にやにやとぼくの顔を覗き込んでくる。
「おまえみたいな単純馬鹿な野郎の考えてることなんて、お見通しさ」
「そう? そうかな……?」
心臓が跳ねるような思いがした。ぼくが隠し続けていると信じ込んでいる「心」までもとっくに見抜かれているんじゃあないだろうか。だとしたらどうしようと、不安になった。
「いいかい、女性の扱いってものをこのディオが直々にレクチャーしてやるよ」
「ぼくの部屋で?」
「ああ」
「お茶を飲みながら?」
「そうさ。不満かい?」
「いいや、大賛成さ」
ぼくはむず痒くなる唇を噛みしめて、せめてもの無邪気を装って喜んでみせた。
ガキ、子ども、年下の男の子。やっぱりまだそう思われてるんだ。
だったら、自分のおかれている立場を充分に利用するだけだ。
主が不在の間も、部屋は日々換気され、清潔に保たれている。年ごろの少年だらけの寄宿舎と比べたら、大げさに言わなくても天国と地獄くらい差がある。勿論、このジョースターの邸が天国に決まっている。
「時々、部屋を使わせて貰ってたよ」
「え?」
ディオの突然の報告に、ぼくは複雑な表情を浮かべるしかなかった。
「気分転換にな」
法律家として活躍しているディオは、頭を悩ませる案件に当たったとき、敷地内を散歩したりするらしい。夜中や天気の悪い日は、邸内を歩きまわるのだそうだ。
「自分の部屋に閉じこもってると気が滅入るし、頭も回らなくなるからな。それにたまに家具も使ってやらないとな」
「机、とか……?」
「ん? ああ」
「……あの」
「ああ! 心配するな! 流石に机の中を見たりはしないさ! 本棚の裏だって調べたりなんかしてないぜ」
「うっ、何だい、その具体的な例は!」
「面白いよなあ。どうして年頃の男ってやつは、大体みんな同じことをするんだろうな」
ぼくは頭を抱えながら椅子に腰掛けた。
見たんだ。そりゃあ、ディオならやるだろうとは思ってた。鍵がかかる寮の引き出しに手紙をしまっておいて正解だった。
「別に隠さなくたっていいじゃあないか。街に舞台を見に行ったことがそんなに気が咎めるのかい」
「……そこまで知ってるなら、どんな内容か分かってるだろう」
「ガキが潜り込める程度なら大したことないね」
「でもきっととうさんは怒るよ。いかがわしい舞台なんて、見に行った事自体怒るに決まってる」
「いいや、あんな所に足を運んだ時点でとうさんは怒るだろうね」
「部活の先輩に連れて行かれたんだ」
「別におれに言い訳なんてしなくていいさ。告げ口もしない。もう判断はつく年だろう。好きにするといい」
「違うよ。本当に……、断れない雰囲気だったから」
「ふうん。だったら何で証拠になる、こんなブロマイドだのチケットだの取って置いてるんだか」
「捨てるのも、勿体なかったし」
「随分年のいってる女優だな」
「あっ!」
本棚の裏から、指先で軽くブロマイドの一枚を取り出し、ディオは嘲笑った。
「こういう香水臭そうなのがお好みかい?」
「……放っておいてくれよ!」
決してその女優が好みなわけじゃあなかった。ただ、そのときの演目は、年上の女性が若い男性を翻弄する内容で、彼の初めてを優しく手取り足取り教えてくれるという話だった。女性に色々教わりたいという欲望を強く持つ若い青年たちは色気たっぷりの女優に夢中になって、主人公に感情移入して見入った。ぼくもその一人だった。
同級生や部活の仲間には言わなかったが、ぼくはもう童貞ではない。
ただ、あの物語の中で、何一つ知らない初心な青年を甘やかして一から十まで時に母親のように見守り、時に姉のようにきつく叱ってくれる年上の女優に、ぼくはかつてのディオを重ねて見てしまっていた。
ぼくの初めてもそうだった。行為の仕方を知らないぼくに、少し年上のディオが、からかうことなくいざなってくれたのを、昨日のことのように覚えている。
しかも、あの女優はブロンドだった。噂によれば、本物ではないらしいが……そんなことはどうでもよかった。
「ぼっちゃま。ティーセットをお持ちいたしましたわ」
ぼくがディオにそう言い放った瞬間とほぼ同時に扉は開かれた。
メイドは部屋の空気を察してか、ティーセットをテーブルに置くと、そそくさと出て行った。
「頂くよ」
ディオはローテーブルの前にある二人がけのソファーに座ると、カップにお茶を注いでいった。二人分のカップにお茶を淹れると、ディオは無言で飲み始めた。
「今度はもっと違う場所に隠すんだな」
テーブルの上にブロマイドが差し出される。ぼくは、それを手に取ると、手の中で握りしめて丸めた。
「やけを起こすなよ」
ディオは諫めるように言った。
「いいんだ。もう必要ない」
「やれやれ。そんなんじゃあ、彼女にも呆れられるだろう」
「……」
ディオが話題を変えるようわざとらしく「彼女」という単語を出してきた。
ぼくはお茶が冷めない内に口をつけた。学校やそとの店で飲むより、家のお茶が一番美味しい。なじみのある味だった。
「そう言えば、さっきディオが言ったよね。女性の扱い方を教えてくれるだとか」
「ああ、いいぜ。お茶のひとつくらい上手く誘える程度にはしてやるよ」
「どうするの」
ぼくはカップを両手に持って、ディオの顔を正面から見つめた。ディオは足を組んで、しばらく顎あたりを触りながら考え込んだ。
「おれの隣に座れ」
「……? うん」
立ち上がり、言われるがままにディオの隣に座る。
「おまえが女役だ」
「えっ!?」
思わず、拒絶の声があがった。
「いいから、黙って聞け」
「……う、うん」
「大体、女性に免疫のないやつはおどおどとしてやがる。おまえのように、口ごもったり、目線をそらしたりするんだ」
目の前で真っ直ぐに語るディオの瞳を、ぼくは落ち着かずに受け止めていた。ぼくは女性に対してそんな態度はとっていないつもりだ。それは相手がディオだからそうなるだけなんだと、多分ディオだけが気づかないんだろう。
「そういう自信の無さそうな男は魅力的には映らない。堂々と……それに強気で行け。女は、そういう男が好きなもんだ」
「……みんながみんなそうとは限らないだろう?」
「そんなわけない。試しにやってみろ。こうやって」
ディオはカップをソーサーに置くと、ソファーの背もたれに肘をかけて、挑発するような目つきをした。そして、ぼくの顎先に指をつけ、顔を上げさせた。
「勝ち気な娘には、こんな風にして自分のほうを向かせる。それで、耳元まで口を寄せて、出来るだけ低く囁いてやるんだ」
「何て……?」
「おれのこと好きなんだろう……って」
「……ッ! そ、そんなこと!」
ディオは殆どぼくの耳朶に触れていた。直接的に注がれた台詞は、気障ったらしいのにディオらしくもあって、ぼくは本気で受け取りそうになってしまった。
「ハハハ! 顔が真っ赤だぜ、ジョジョ」
「それは……ディオだから出来るんだよ。世界中の男性がそんなやり方したら、大変なことになるよ」
「まあ、それは確かに言えるな。このディオのルックスがあるから通用する手段だったか」
からからとディオは笑ったが、やがてぼくの顔をまじまじと眺めた。
「いや……おまえも……このディオには劣るが、悪くはないんじゃあないか?」
「へ? また、そうやってからかって」
間近にあるディオの顔を意識してしまうので、ぼくは顎を持たれた指先を振り払って前を見た。
「いいや。真面目さ。もっと気を引き締めた顔をしないか。自信を持った表情をしろ。強気な目をしてみろよ」
ディオは気にする素振りもなく、今度は両手でぼくの顔を自分の方へ無理矢理に向かせて、命じてくる。
ぼくは口を結んで、じっとディオを見た。
強気で自信のある表情を作れと言われても、どうすればいいか分からなかった。そんな顔になっている時を思い出してみる。それは、ラグビーの試合の時だった。とても真剣な目で、戦いの表情になっている、と言われたことがあった。恐らく、ディオが求めているのは、そういった顔つきなのだと思う。
「そうだ。そのまま、おれがさっき言った言葉を……出来るだけ低い声で、骨に響くような感じで言ってみろ……」
ディオは満足そうだった。
「おれのこと、」
ぼくは思わず吃りそうになるのを堪えた。意識して話せば、自然とゆっくり言葉が紡ぎ出される。
「好きなんだろう……?」
「そうだ。いいぜ。その感じでいけば、大抵の女は落とせそうだ」
頬を包んでいた手の力が緩まって、よしよしと獣を慰めるように撫でられていった。
「ディオ……」
「ン? なに……」
ぼくには歯止めがきかなくなっていた。
もう無理だ。無理だった。
「ディオ……ぼくは、」
「お……おい、ちょっと、何を」
ディオの両肩を掴むと、ぼくはそのまま体重任せにしてディオの上に伸し掛かっていた。
「うっ……わ!」
ディオの後頭部に手を入れて、そのまま押し倒していた。
「ディオ、ディオ……ッ!」
「う……ッおい、何があった!? うっ、ぐ。今のやりとりのどこに、こうなる気配があったんだ!?」
ディオはぼくのきつくなったジャケットを掴んで抵抗している。成人男性ががむしゃらになって腕を振り回しても、錯乱状態にあるぼくの肉体は痛みを感じ取らないので、その場から動かなかった。
ジャケットの肩と腕のつなぎ目が、嫌な音を立てて引き裂かれた。もともとかなり負担はかかっていたのだろう。
「あ……ッ!」
急に手が軽くなったディオは空に腕を振り下ろしていた。
「ディオ……ぼく……ッ、君に……」
「ぐ、うわっ」
「キスしたい……ッ!」
「……はあ!?」
その時のディオの顔は、お世辞抜きに、冗談も抜きに、とびきり可愛かったんだ。ぼくのとっておきの思い出だよ。