ずるずると愛し合ったって仕方ないだろう、こんな意味のない関係 2

     四

 赤ん坊がどこから来るのかジョナサンはまだ知らない。
 昔、裏庭で飼われているにわとりの卵が孵るのを、ジョナサンはこっそりミルクメイドに頼んで見せてもらったことがあった。
 牛のお産は、深夜だったから見せてもらえなかったけれど、ジョナサンはきっと牛も大きな卵から生まれてくるのだろうと思っている。命はみな卵生だと勘違いしている。
 人間も、父親と母親が愛し愛され合ったときに、神さまがこの二人なら大丈夫だと認めて下されば、赤ちゃんの入った卵を神さまが家の玄関に置いていく。というおとぎ話を今でも信じていた。ただその卵は大人にしか見られないものだと思っているので、やはり赤ん坊がどこから来るのかは、ジョナサンにとっては定かではなかった。

「はぁ……」
 寒気が星空を明るくさせるほどに、夜の空気は冷たかった。
 何度目かの寝返りをうったのちに、ジョナサンは起き上がって窓辺に腰掛けた。
 カーテンをあけて、窓に息をふきかけた。白く曇った窓硝子に文字を書く。ディー、アイ、オー。無意識に書いてしまった文字にはっと気がついて、手の平で擦って急いで消した。
 どうして真夜中は寂しくて、辛いのかな。静まり返った邸内は、ジョナサンをひとりぼっちにさせる。
 ジョナサンはベッドに戻り、横になって母親の肖像画を見て尋ねてみる。母はいつも微笑んではくれたが、ジョナサンの欲しい答えをひとつも授けてくれなかった。
 ディオに不思議な気持ちを抱くようになってから、眠れない夜が続いていた。
 眠ろうと目を閉じると、ディオの言った言葉や、呼んでくれた名前が、耳の隙間に残っていて、眠りを妨げた。頭の中には鮮明な映像として、ディオの顔や、指や手や、白いうなじが、次々に浮かんでジョナサンを悩ませた。
 そして、触れられたところは時々熱くなって、ディオのつけているコロンの香りがいつまでも忘れられなく、ジョナサンはどれほど時を待っても寝付けなかった。
「これじゃあ、また父さんに叱られちゃうなぁ……」
 ディオが大学に通っている間は、ジョナサンにとって邸がやっと落ち着く場所になってくれる。そうなると途端に眠気がやってきて、特に父とふたりで過ごす午後の勉強時間はジョナサンの眠気は限界を迎えてしまうのだった。
 居眠りでもしようものなら容赦なく鞭が振るわれ、こっぴどく叱られてしまう。そうなると分かっていても、やはり今夜も眠れなかった。

「おなか、すいたな……」
 夕食の時間からは、すでに何時間も過ぎていた。夜更けまで起きていれば、何もせずとも腹も空いてきてしまう。
 ジョナサンは夕食の残りか何か無いかと、こっそりキッチンに忍び込むことにした。
 明かりが全て消された邸内は、幼少からずっと暮らしているジョナサンであっても、不気味に思えた。父親の父親、そのまた父親の前からある邸は、大きくて立派だが古い造りであり、いかにも幽霊が出そうな雰囲気がある。
 父親に見つかれば、怒られてしまうだろう。見回りの使用人だってきっと黙ってはいない。ジョナサンはランプではなく、小さなロウソクだけを持って歩いていた。これなら、もし誰かに見つかったとしてもすぐに息で吹き消せる。隠れる場所ならいくらでも知っている。そんな悪知恵だけは妙に働くものだった。
「うう、やっぱり寒いなあ……」
 キッチンは、主人たちの生活している建物とは別の使用人たちの建物の中にあった。
 邸から行くには、一度外に出ないといけなかった。外気にふれた肌が凍りそうだとジョナサンは息を吐きながら進んだ。
「あれ……あかるい」
 台所は一階にある。窓には灯りが見える。ジョナサンは近寄って、戸にそっと聞き耳を立ててみた。まだ誰か仕事をしているのだろうか。だとしたら引き返さなくてはならない。ジョナサンはそろそろと窓に近付いた。
 物音はしているが、声は聞こえない。まさか物取りか何かではないかと、様子を窺ってみたが、影の形で、それが誰であるかジョナサンにはすぐ分かったのだった。
「何、してるの?」
 ドアを音を立てないよう静かに開け、ジョナサンはその人物の後ろ姿に声をかけた。
「……ッ! なんだ、ジョジョか……驚いた」
 一瞬、びくんと、震えた肩が可愛いとジョナサンは思った。金色の髪をちょっぴり乱した人は、ディオだったのだ。
「おまえこそこんな時間に何してるんだ。子どもはとっくに寝る時間だろう?」
「うん……眠れなくて、それで」
「それで、腹をすかせたってわけか?」
「ええ? どうして分かったの?」
「顔に全部書いてあるぜ」
 ふふふ、とディオは小さく笑った。心の、いや、腹の中を読まれてジョナサンは気恥ずかしいような、嬉しいような、照れくさくなって、耳の裏を掻いた。
「ディオは? 何していたの?」
「ンー、いや、ちょっとな」
 ジョナサンは目ざとくディオが後ろ手に何かを隠したのを指した。しばらくディオは黙ってやりすごそうとしたが、ジョナサンはじっと見つめてまん丸い目で責めるので、やれやれと諦めて言った。
「……仕方ないな、お義父さんにはナイショだからな?」
 内緒、と言われて、ジョナサンの頬は緩みそうになった。
 その時、ディオがジョナサンに向かって、色っぽくウインクしてくれたのも原因だっただろう。
「お酒?」
 ディオが後ろ手に持っていたのは、深緑色の瓶とグラスだった。
「ナイトキャップさ」
「眠れないの?」
「いや、単に習慣だよ」
 ジョナサンはほんの数年前まで、ジョージが夜に寝酒をとっていたのを知っていた。大人が真夜中に一人でお酒を飲むのは何か悲しいことがあった時だと、幼いジョナサンはジョージを見て学んでいたのだ。
 ディオの寝酒は、本当に単なる習慣だったかもしれない。ジョナサンの余計な勘繰りではあったが、もしディオが悲しいなら、自分も同じくらいに悲しいし、出来るならその悲しさを消してあげたいとおこがましくも願ったのだった。
「ここに長居するのはまずいな。ジョジョ、邸に帰ろう」
 そう言われて、ジョナサンはディオに手を引かれながらキッチンをあとにした。冷えていた手がディオに握られて、じんじんと温まっていく。
「ジョジョ、おまえって本当子供だな」
「何でっ」
 また子ども扱いされて、ジョナサンは唇を尖らせた。他の誰か、父や、周りのみんなに子ども扱いされても、何ら疑問も持たず受け入れて生きてきたのに、ディオにそう言われたり思われたりすると、ジョナサンは彼の前では一人前の男でいたくなった。
「手が熱い。子供の体温だ」
 ディオは目を細めて、ジョナサンの手をきゅっと握り直す。
 誰のおかげで体温が上がっていると思ってるんだ、とジョナサンは喉の奥まで出掛かった台詞を飲み込む。
「だからか、寒くないな」
 振り向いたディオは、やはりジョナサンに向かって笑ったので、ジョナサンは曲げていた口を今度は反対に曲げて、口角を上げてしまったのだった。



 ディオはジョナサンを連れて、自室へと帰ってきた。
 部屋の明かりをつけてから、ディオは上に羽織っていたガウンを脱いだ。ガウンの下に着ている寝巻きは薄手であった為に、明かりの元ではディオの体のラインが透けて見えた。まるでいけないものを目撃してしまった面持ちで、ジョナサンはそこからすぐに目を反らした。
「ジョジョはもう十三だったか。酒くらい飲んだことあるだろう?」
 勉強机の上にグラスをふたつ並べて、ディオは瓶の蓋をあける。アルコール臭が部屋に散らばった。
「まだ十二だよ、お酒は、……無いよ」
「おや、じゃあビールも飲んだことないっていうのか」
「ないよ。とうさんに怒られるもの」
「では、乾杯しよう」
 ディオは小さなグラスに薄茶色に透ける液体を注いで、その一つをジョナサンに手渡した。
「ジョジョの大人への第一歩を祝って、乾杯!」
「……かんぱい」
 グラスの中の匂いをかいで、ジョナサンは口にするのを躊躇った。あまり気乗りのしない香りであった。
 ディオは、くっとグラスを傾ける。薄茶の飲み物は一気にディオの口の中に吸い込まれていった。
「うん、やはり美味いな。奥に隠してあるのは上等なものばかりとは聞いていたが」
「……おいしいの?」
「何だ、飲まないのか? やっぱり子供には早かったかなァ」
「……そんなこと、」
「まあ、無理はするなよ。飲めないなら仕方ない。ぼくが飲むからいいさ」
 ディオの白い肌はほんのり紅潮して、いつもより更にその肌を艶めかせる。
 ジョナサンは今これが飲めなかったら、今後もディオに子ども扱いされ続けるのだと危惧して、覚悟をきめて一息に中身を呷った。
「うん、……おいしい」
 渋い顔をして、ジョナサンはグラスをあけた。舌には苦味が広がっている。
「ははっ! 我慢するなよ、ジョジョ」
「してない、もう一杯!」
「くくく、そういう所が子供っぽいって言うんだよ。ジョジョォ」
 少し舌っ足らずに言うディオは、そんなに酒に強くはなさそうだ。酔いのまわりが早く、赤くなった肌を晒している。ディオは自分とジョナサンのグラスにまたなみなみと酒を注いだ。
 むきになったジョナサンは、二杯目も一気に飲み干した。最初に口にした時より、味には慣れた。体はかっかと熱く火照ったが、頭の中はまだ正気で居られているようだ。視界がたまに眩むが、まともな思考はまだある。
 ディオはそんなジョナサンを機嫌よく眺めて面白がった。二杯目以降は、とろとろとのんびり酒を口に運んでいき風味を楽しんだ。
 赤く充血したディオの唇が、ほんの少し開けられて艶かしく液体を口に運んでいく。その姿が、ジョナサンの雄を目覚めさせていく。
 
 動物の子らは、親や大人にわざわざ本能を教わるだろうか? いかがわしい本や写真を見るのか? 雌犬のポルノを見て、雄犬はそれで興奮できるだろうか?
 一体、そんなものは自然界のどこにあるというのだろう。
 健全で健康な生き物であるなら、体の中、肉体にそなわる本能は誰しもが備え持っているものだ。他の誰かに教わりはしない。雌が呼び、雄が向かう。そして、そのまた反対もあるだろう。
 なら、これは? ジョナサンの不思議な気持ちは、なんと名づけたらいいのだろう。

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