微笑みのみどり 1
一 プロローグ十五の初夏。あれは、ぼくの誕生日のひと月後のことだった。
敷地内の草原はあたり一面に、いきいきとした若草が広がっていた。ぼくは夕陽に照らされて光る草の中に、一際輝く黄金色を見つけた。どんなに遠くても、その金色は一等目立っていて、嫌でもぼくの目の中に飛び込んでくるのだ。
金髪の少年は、二階の窓から見下ろすぼくの視線に気づきもしない。
普段は早足できびきびと風を切って歩いているのに、今日に限ってのろのろとしたおぼつかない足取りだった。どうやら目を擦りながら邸へと帰ってくるみたいだ。いつもなら、ぼくはわざわざ玄関まで迎えに行ったりしないのに、何故かぼくの足はディオの元に向かっていた。泣いているのかもしれない……心配? いや、単なる好奇心だったろう。
ホールにはただならぬ空気があった。ディオは何者の言葉にも耳を貸さない。そして誰もがディオに声をかけられなかった。ディオもまた無言だった。
泥のついたズボンに、泣きはらした目元、下唇はきつく噛み締められていて赤くなっている。
手洗い用の桶で汚れた手を洗っているディオの横顔を、ぼくも矢張りだんまりと見つめていた。
昨日までと何が違うのか、ぼくにはさっぱり説明がつかなかった。
けれど、昨日とは違う不思議な切なさを感じるディオの横顔に……ぼくは、多分恋に落ちてしまったのだ。間違いなくその瞬間だったのだと、今なら確信して言える。
二
恋なのだと自覚して三年が経った十八の晩秋。
遠乗りで出かけた湖畔で、ぼくは大胆な行動に出てしまった。
時折、自分でもびっくりしてしまうほど、ぼくには妙な積極性がある。ぼくのそういった言動、行動のことを、ディオは「爆発力」などと言っている。そんなつもりは、ぼくには無いんだけどな。
陽の光の加減できらきらと反射する湖の美しさや、目の前で揺れている金色の頭髪の眩しさにぼくはしばし現実を忘れて、心を奪われていた。
もしも、ぼくが詩人であったなら、思いつく限りの賛辞でその素晴らしさを詠うだろう。
だけど口下手なぼくは、行き場を無くした思いの代わりにため息をつくしかなかった。
馬の足取りがゆっくりとペースを落としていく。木々のアーチの下には、鳥の囀りだけが響いていた。
彼の髪がぼくの手の届く場所で風に揺れていて、途端ぼくの胸は締め付けられるように苦しくなった。
いつまで続くのだろう、この遣る瀬ない心の痛み、持て余している感情。
鼻の奥がつんとして、視界が滲み始める。
この先もずっと、こんな風にディオの後ろ姿を見ているだけなら、いっそ全て壊れてしまえばいい。そうしたら、きっとこの痛みからも解放されるだろう。
十八の年頃に似合う破壊願望を持っていたぼくは、胸の奥に仕舞いこんで鍵をかけていた台詞を取り出していた。
「ディオッ!」
短く真っ直ぐに切り揃えられているうなじの金髪が、振り返る一瞬、太陽に反射して、ぼくの目を閉じさせる。
次の間に、ぼくが目を開けると、ディオは目線だけで「何だ」、と問いかけていた。
段取りも手順もすっ飛ばして、ぼくはずっと秘めていた思いの丈をぶちまけた。
「好きだッ!」
あまりに突拍子の無いぼくの発言に、ディオは目をまんまるくして手綱を落とした。
ぼくはディオの返答を待たず、頭を下げて、尚且つ恐れで瞼を強く閉じて続けざまに言った。
「好きだ、好きだ、好きだ! ぼくは……ディオのことが好きなんだ……友達としてじゃあない、家族としてでもない……ぼくは、ディオのことを、恋人としての意味で愛してるんだッ!!」
唾を吐いて、嫌悪感たっぷりに拒絶してくるディオの反応ならぼくは頭の中で何百回と想像してきた。恋心を自覚してから、そんなディオを想像しては痛みに耐える訓練をしてきた。……つもりだった。それでも、いざとなるとぼくはひどく臆病者だった。
拒みの答えなど聞きたくないと耳を塞ぎ、冷たい視線を浴びたくないと目を瞑り、ぼくは身を震わせていた。逃げ出したい衝動だけは何とか必死に抑え込んで、歯を食いしばっていた。
あのまま告白などしなければ、おそらく永遠に続く苦しみだったのだ。ぼくはそれから解き放たれたくて、決意をしたというのに、なんて様だ。
あまりにも情けない告白に、自分自身にうんざりしてしまう。意気地なしとはまさに今のぼく自身を言うのだろう。
そして、長い沈黙が流れた。
ぼくは硬く閉じていた瞼を開いて、まず馬の背を視界に入れた。
そして、自身の首をおずおずと持ち上げる。ゆっくり、視線を上げていく。
滲んで歪む世界の中には、白い頬をばら色に染め上げているディオのきれいな横顔があった。
頬だけではない。耳も、そして首筋も、みるみるうちに陽に焼かれていくようにどんどん色味を増していくのが、ぼくの目に鮮やかに映っていた。
「ディオ……?」
ディオは自らの両の手で顔を覆い隠して、一言も声を漏らさずに首を振って、馬の背に伏した。
今時、淑女でもそんな仕草などするものか。ディオの振る舞いにぼくの心臓は鷲掴まれてしまう。
「ディオ……。なんでもいい、何かぼくに言ってくれないか?」
思わず、ぼくはディオへと腕を伸ばしていた。その手に気づいたディオは、はっとして我に返り前を向いた。
そして手綱を持ち直したディオは、急いで馬を走らせる。
ディオの動揺が伝わったのか、馬も困惑して荒い足取りで道を駆け抜けていく。
「危ないッ!」
このままだと湖へと突っ込んでしまうと、ぼくも馬を走らせて慌てて追いかけた。
混乱したディオの緊張がそのまま馬に伝染し、両者ともパニックになっていた。ぼくはすんでのところで手綱を掴み、湖の波打ち際のぎりぎりでディオの馬を止めることが出来た。
「ごめん、ぼくが……君を困らせたから……あんなこと言わなければ……ごめん」
ディオの馬の首や身を撫でて、落ち着かせる。ディオの呼吸が整うと、馬も同じくして、大人しくなっていった。ディオは、終始一言も漏らさなかった。顔もぼくから背けたままだった。
ほどなくして、ぼくはディオの手綱から手を離し、来た道を引き返そうとした。
「……待て」
偶然にもこの時は無風であり、鳥も馬もみな静かにしていたので、ぼくはディオのとても小さく小さな声を聞き取れた。
もし、この声を聞き逃していたら、ディオはきっとぼくの告白を無かったことにして、ぼく達の関係は変わることも無かったのだろう。
「な、なんだい……?」
ぼくは、ぎくしゃくとして振り返った。全身に鉄の鎧をつけられているように腕も足も、頭も指も重かった。
何通りものディオのあらゆる罵声を頭の中でシミュレートしてきたはずだ。どんな言葉をぶつけられても、きっと堪えられる。
ぼくは、自分で自分を激励した。しかしいくら励ましても、ネガティブな方向にしか向けないのが空しかった。
「恋人としての愛してるって、どういう意味だ……」
『このカスが』だとか、『このディオに向かって何をほざくか! マヌケがぁ!』だとか、『この犯罪者の同性愛者め! 地獄に堕ちろ!』だとか、そういった類を想像していたぼくにとって、ディオのこの質問には、今度はこちらが目玉を落とす勢いで、瞳を丸くせざるを得なかった。
「その……ええと、たとえば、手をつないだりとか……」
「おまえが求めるのは、それだけか?」
「き、キスをしたりとか……」
口にしてから、ぼくは自分の頬が熱くなるのを実感した。
「あとは?」
「あ、愛を語らったりとか、」
今度は、背中が汗ばむのが分かった。凄く恥ずかしい気分だ。
「……ぼくと?」
ディオの左頬がぴくりと不機嫌に歪むのが見えた。
「うん……、いや、ディオの言いたいことは分かってる。」
どれもがぼく自身の純粋な望みではあったけれど、不愉快そうなディオの顔を見てしまうと、何だか申し訳なくなって、ぼくは頭を下げるしかなかった。
「まあいい、それで?」
「え?」
「その先は?」
「え、ええと……。」
まるで性教育の教科書を、大勢の同級生の前で朗読させられているようだ。恋人とはなんだ? と問われて一から説明しなくてはならないなんて、思っても見なかった。
「はっきり聞こう。君は、ぼくと寝たいのか?」
「え……ええッ?」
ぱっと頭に浮かんだ想像の中では、ぼくとディオが横になって揃いの寝巻きを着て、なかよくベッドで眠っている。
だけど、ディオの言っているのはそういった可愛らしい幼稚な意味の寝るではなくて、性行為としての意味なんだろう。いくらなんでもぼくでも分かる。
「そういう意味で、ぼくに好きだと言ったのか。」
Yesでもあり、Noでもあった。恋愛感情で好きになった相手に、性欲を抱かないなんて言う馬鹿な男などいない。
でも、反対にそれだけでぼくがディオに好きだと言ったのだとも思われたくもない。
「恋人っていうのは、別に今言ったことだけじゃなくてさ……、ただ、こう、今まで以上に仲良くすることとか、その……ぼくは一緒にいるだけでもいいんだ。」
「したいのか、したくないのか。正直に言え、ジョジョ」
ディオは自分の発言で、顔面を赤くしている。火照る顔が痒いのか、手袋を取って頬を掻いていた。
「し、したいよ! 好きだから……君を抱きしめたいって思うよ……っ!」
「おい……誰が、好きだって? もう一度言えよ。」
「え?」
「おまえは誰が好きなんだ」
「ディオ……」
ぼくは自信なさげに、つぶやく。
「もっとちゃんと言えよ」
高圧的なディオの声は、ぼくの胸を刺す。
「ぼくは……ディオが好きだ。」
改めて目が合った。ディオは細めた目でぼくの顔を見てくれている。
「もう一度」
「ディオが好きだ、好きだよ……愛してる。」
ぼくは馬から降りると、ディオの側へ駆け寄った。そして、彼の手袋を取った素肌の手を握って、そこにそっと口付けをした。
「フン……忠誠を誓う騎士、といったところか?」
「ああ。誓うよ、君に……」
白い手の甲と、そして指先に唇を触れさせて、ぼくはディオの手をぎゅっと握る。
「ジョジョ、おまえはぼくが……」
その先の言葉は続かなかった。ディオは口を閉じて、俯いてしまった。ディオが言おうとしていたことは、後になって分かるのだった。
何はともあれ、こうしてこの日に、ぼくの恋は実を結んだのだった。