微笑みのみどり 11

 ポケットに入っていたハンカチで、応急処置は出来た。とりあえずディオの濡れたところを拭ってやり、指を動かすのも億劫なディオにシャツを着せる。
 放り投げた服はどれも皺くちゃになっていて、草がついていた。ディオの逆鱗に触れる前に、服をはたいて、皺を伸ばした。
 お姫様に仕えるみたいに、ぼくはディオに尽くした。自分は素っ裸のままで、ディオの身支度を整えていく。
「どこか……痛むかい?」
 靴下を履かせてやりながら、ぼくは尋ねる。ディオは、不満そうに頬を膨らませた。
「尻と腰……全身が痛い!」
 それもそうだ。こんな硬い草原の上に寝かせてシたんだから。ぼくは何も言い返せなかった。
 腿には、ガーターリングが残っている。辛うじて引っ掛かっている程度だった。リボンは解けて、よれている。
 結び目を一度解いて、ぼくはリボンを直した。ディオは足を上げて、ぼくの不器用な手つきを見下ろしている。
「あれ……」
 どうしてもリボンが縦になってしまう。何度やり直しても、リボンは不恰好な形にしかならなかった。
「いい、自分でやるッ」
 ディオはぼくの手をどけて、さっとリボンを直してしまった。細い指先が軽やかに動くのを、ぼくは馬鹿みたいに見ているだけだった。

 高い位置にあった陽が傾きかけている。
 どれくらいの時間をここで過ごしたんだろう。山の向こうはもうオレンジ色に変わり始めていた。
「帰ろう……送っていくよ」
 ぼくは、シャツのままでも暑かった。そもそも、このジャケットはもう使い物にならないだろうと思った。
 立ち上がり、ディオの手を取る。ディオは、足に力を入れようとして踏ん張ってみる。けれど、一向に腰が上がらない。
「ええい……っ、クソォッ!」
 苛立ったディオは、草を千切ってぼくに投げつけた。
「おまえの所為だ! うううう〜〜〜っ!」
 ぼくを睨みつけて、ディオは今日何度目かの涙目になった。
「あっ……え? ……えーと…………そ、そうか……」
 どれだけの負担がディオの体に掛かったか。腰が抜けてしまうほどなのは明らかだった。
「ごめん……本当にごめん、すまなかった……」
 そう言って、ぼくはディオを正面から抱きかかえた。
「うわっ! やめっ……ろ! 痛いって言ってるだろっ!」
「え、じゃあ、どうしたら……って、いたたたっ」
 どうやら、腰を持つと痛むみたいだ。ディオはぼくの髪を思いっきり引っ張って、怒っている。
「知るかぁッ!」
 一頻り暴れたディオは疲れもあって、やがて大人しくなった。
 背負おうとしても嫌がったので、とりあえず一度座らせた。
 ぼくは、傍らに置かれていたディオの本を拾い、それを渡した。表紙が土に汚れていて、ディオは手で払い落としていた。
「ディオ、これも持ってくれないか?」
 丸めたジャケットを手渡すと、ディオは嫌々ながらも受け取ってくれた。それらを持たせて、ぼくはディオの背と膝の裏に腕を入れた。そのまま立ち上がり、ディオを胸の方へ抱き寄せた。
「……いいかい? もう暴れたりしないでおくれよ、ディオ」
 胸の中で、ディオはちらりとこちらを見る。この抱え方には不満は無いそうだ。
 童話の挿絵で、王子様がお姫様を抱くときと同じ形だった。ディオはこれをして欲しかったんだろうか……?


 道中、会話らしい会話など無かった。ぼくが話しかけてもディオはほとんど無視していたからだ。
 疲労もあるのだろうと思って、ぼくは気に留めなかった。ぼくを嫌ってはいないという自信は、ディオの手がぼくのシャツを握っていたから、という些細な出来事くらいだった。
 邸のすぐ側まで来て、ぼくは誰かに見つかる恐れを今更に持った。
「ディオ……ここにベンチがあるから、一度降ろすよ」
 静かにディオを座らせて、ぼくもその横に腰掛けた。
「ここなら邸のすぐ近くだから、誰かが君を見つけてくれる」
「……ジョジョ?」
 不安げにディオはぼくの袖を掴んだ。その手を、ぼくはそっと外してやる。
「お別れだよ、ディオ」
「え……? 何言ってる、……意味が分からない……初めからそうだ、おまえの言ってることは訳が分からない」
 出来るだけ、ぼくは優しく微笑んだ。ディオにどう映ったかは、知る由もない。
「君に会えて嬉しかった」
「な、なんで……っ」
 ぼくは握ったディオの手に口付けた。指先の力が強くなって、ディオはぼくを離すまいとしている。
「ぼくは、君のジョジョじゃあない。君のジョジョは……ちゃんと居るから、さよならじゃあないよ」
 自分でも、訳が分からない答えだと思ったけれど、それは本当だから正しいことだった。
「や、嫌だ……ッ!」
「大丈夫だよ……君がぼくを好きになるように、ジョジョを好きになる。ジョジョも君を好きだから」
 ぼくは、ディオの瞼を手で覆い、最後のキスをした。唇の上をさわるだけだったけど、一番気持ちが篭ったものだった。







 次にディオが目を開くと、隣には誰も居なかった。
 瞬きをすると、ぽろりと涙が粒になって零れた。止めようと思っても、体に意思が通じない。拭っても、涙は次々に流れてディオの頬を伝った。
 膝の上には読みかけの本と、まるまった大人のジャケットがある。ディオは、八つ当たりのようにジャケットで涙をごしごしと拭いた。耳に残っている甘い声が蘇る。
『綺麗な金色の目がこんなに赤くなって……。ああ、強く擦っちゃ傷になるよ』
 心の中で、ディオはジョナサンを呼んでみる。今にも、優しい返事が聞こえてきそうだったが、ディオの耳には冷たくなった風だけが空しく啼いているだけだった。


 ジョナサンは、二階の窓から外を眺めていた。今日は夕陽がやけに綺麗だと思った。感慨にふける年頃ではなかったけれど、今日はそんな気分だった。
 窓の下に、ふと視線がいく。人気が無かった筈の場所に、夕焼けに映えるものが目に入った。
 金髪だった。ジョナサンの記憶の中では、あのように輝く色は他にない。――ディオだ。
 夕暮れも迫る時分に、ディオがあんな所に一人でいるのは珍しかった。ジョナサンは好奇心から、こっそりと彼を観察することにした。
 ディオは俯いて、布のようなかたまりを抱いている。時折、目元を擦っている。
 ――泣いてる。
 ジョナサンは、どきりとした。血も涙も無い奴だと思い込んでいた人間が、あんなにしおらしく一人で涙しているなんて……。
 急に、ジョナサンは胸の奥が熱くなって、苦しくなった。
 自分まで、泣きそうになる。鼻の中がつんとした。
 放っておいても、何も問題ない。むしろ、関わらない方が自分の為だと、今の今までのジョナサンならそう判断しただろう。
 考えるよりも早く、ジョナサンは階段を駆け下りていた。
 ――ディオ、ディオ、ディオ!
 頭の中、心の中で、名前を叫んだ。口からは、発せられなかった。
「…………っ、……ディ、ディオ……ッ」
 息を弾ませて、ジョナサンはディオの前に立っていた。目元が赤くなっているディオは、一瞬驚いて身を竦ませたが、またいつもと同じ態度になった。
「なんだ、おまえか」
 落胆したようにも、うんざりしているようにも見えた。ディオはぷいと、顔を背けて、ジョナサンから顔を隠す。
「家に……戻らないのかい……?」
「………………帰るさ」
 ディオは、立ち上がれないことを悟られないように、何でもない振りをした。
「じゃあ、戻ろうよ」
 迷いもなく、ジョナサンは手を差し伸べる。ディオには、先ほどの青年の姿のジョナサンが目に浮かんだ。瞳の蒼さも、黒髪も、確かに似ている。
 ディオは頭を振った。浮かんだ幻影から逃れようとして振った頭を、ジョナサンは自分の手を断る意味で首を振ったのだと勘違いした。
「いつまで、ここに居るつもりなんだい」
「……君には関係ないだろ」
「あ、あるよ……!」
 いい加減どこかに行ってほしくて冷たくあしらっても、ジョナサンは諦めが悪かった。今日に限って、しつこい。ディオは苛々した。何か文句でも言いたかったが、体には余韻が残っていて、兎に角かったるい。
「何の意地を張ってるんだ! 担いででも帰るよ!」
 ジョナサンも、妙に固執していた。どうしても放っておけなかった。ディオをこのまま一人にさせておきたくなかったのだ。
 片腕をぐい、と無理に引く。
「あっ! んっ!」
 敏感になりすぎている肉体が、ジョナサンの手に触れられて、勝手に声が洩れ出してしまった。腰がぬけているディオは、ベンチからずり落ちると、そのまま地面にへたりこんでしまった。
「何……、今の声……どう、したの……?」
「い、いいから、ぼくのことは構うなよッ! あっち行けよ!」
 へなへなと力なく、ディオはその場に座り込んでしまった。動きそうもないディオを、そのままにして戻るわけにもいかず、ジョナサンはディオを覗き込んだ。
「顔が真っ赤だよ……君、どっか悪いんじゃあないか?」
 涙の跡が幾重にも残っている目尻から頬を、ジョナサンは親指の腹でなぞった。
「んッ、んう……っ!」
 肉体は、ジョナサンの指を認識して感じ入る。ディオ自身は、単に行為後で敏感になっているだけだと思い込んでいる。肉体は、ジョナサンの肌や指にだけにしか感じないようになっていた。
「ほら、変だよ……」
「さわっ……るなぁ!」
 ディオは身を抱くようにしてジョナサンの手から逃げた。びくびくと震え上がるディオの体に、ジョナサンはよからぬ思いを抱き始めていた。
「本当に、ぼくが運んじゃうからね」
 正面から抱きかかえると、ジョナサンは軽々とディオを持ち上げて、歩き出した。
「うっ……ぐ! 離せったら! 降ろせよ!」
「だめだ! 君の部屋までこのまま行く!」
 融通がきかないのはお互いさまのことだった。玄関の戸が使用人に開けられ、心配する執事やメイドの言葉にジョナサンは耳を貸さず、ディオの部屋まで一人で行った。
 ディオは、他の人間にこんな姿を見られたことに腹を立てて、出来る限りジョナサンのあちこちを抓ってやった。それくらいしかすることが無かった。
 ディオはベッドに赤ん坊のように寝かされてしまう。苛立ちの収まらないディオは手に取った枕をジョナサンに向かって投げつけた。
 反対を向いていたジョナサンは、気配を感じ取ってはいた。けれど避けるまでには至らず、羽毛の枕が後ろ頭に命中した。
 普段ならば、ここでつまらないケンカになるものだ。ジョナサンとて怒りを感じなかったわけじゃなかった。それでも、ぐっと堪えて
「夕ご飯は部屋で食べるんだよ。君の体調が悪いってことは、ぼくから父さんに伝えておくからね」
 と大人のようにディオを諭したのだった。
 ディオの部屋の戸を閉めると、部屋の中からは水差しが倒れされる盛大な音が聞こえて、ジョナサンはやれやれとため息をついた。


 ふと、ジョナサンはディオが持っていた布のかたまりを持ち帰ってしまったことに気づいた。
 ディオは、本とこれを持っていたのだった。
 布を広げるとそれは皺くしゃの大人のジャケットだった。
 見たこともないサイズだった。ジョナサンの父も大柄な体格をしているが、もっと大きいサイズのようだ。
 あちこちに草がついて、泥や土がついているし、何だか薄汚れている。
「なんでディオはこんなもの持ってたんだろう?」
 ジャケットの内側を開く。ポケットの下には、
 “Jonathan Joestar”
  と、刺繍されていた。



Going back to square one…?

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