微笑みのみどり 3





 いたいけな反応をしてみせたり、かと思えば妙に手馴れていたりして、とにかくディオは謎めいていた。
 どうしたらいいのか分からなくてまごついているぼくの手を、ディオはさりげなく誘導させて、ぼく達は何とかして初体験を終えたのだった。
 事を無事に終えた喜びで、その時はすっかり満足してしまって、ぼくの中に生まれていた疑問は聞くタイミングを失ってしまった。
 わざわざそんなことを尋ねるのも失礼だろう……ぼくはディオに対して生まれたひとつの問題を自分の中だけに仕舞い込んで、忘れることにしたのだった。
 だった、……だったのだけれど、それでもやっぱり気になってしまうものは、気になるのだ。月日が経つにつれて、ぼくの中で問題はすっかり大きく育ってしまった。

 十八の秋から、三年が過ぎていた。今年の秋も、もう終わりに近づいている。庭の木々の葉もとっくに落ちきっていた。曇り空を見上げると、今にも雪が降り出してきそうだった。
 ぼくが抱えている問題を除けば、ぼく達の関係は何のトラブルも無く、頗る良好だった。
 勿論、今の良いバランスになるまでは様々な出来事があった。それをお互いがどう対処すればベストなのかをよく話し合って、解決してきた。時にはぶつかり合うこともあったし、稀に血を見る事もあった。
 それでも、ぼく達は二人でいることをお互いが望んだのだ。今はとても穏やかな時を過ごせている。ぼくは充分幸せだ。
 ぼくもディオも大人になったのだろう……。子どもの頃のような、諍いはほとんど無くなった。
 それでも、言い争いになると、ぼくはつい「あの問題」を口に出しそうになってしまう。
 恐らく、忘れようとして頭のすみに追いやっているつもりでも、いつでもぼくの中には「あの問題」がぼくの心の隙を突いてくる。
 ぼくは、本当に度量の小さい男だと思う。
 ――どうでもいいじゃあないか、そんなことは気にすることではないのだ。今が一番大事だと思うのなら、自分の隣にいてくれる彼を大切にすればいいのだ。
 ……昔の恋人のことなんて――

 ぼくは、気にしないふりをずっとしてきた。でも、どうしたって忘れられなかった。
 いつでも頭の中に悪魔は住み着いていて、ぼくを暗い思想に連れこもうとするのだ。

 『ディオは、誰かの腕に抱かれたことがある。』

 それはきっとぼくの知らないディオの人生だ。
 何から何まで、ひとつも残らず全て知りたいと思うのは罪だろうか?
 ディオにそんなぼくの望みを語った所で、嫌がられるのは容易に想像がつく。彼は過去を話したがらない。
 それなのに……。
 いつ? 誰と? どこで? どんなやつだ? 君はそいつを好きだったのか? 一度だけ? それとも何度も? どのくらいの間? 
 君は、子どもだった? なら相手は大人? それとも同じくらいの年ごろ? 男なのか、女なのか? それとも両方?
 思考とは自動的なもので、始まりだすと勝手がきかない。やめようと思っても、ぼくの中には次々と疑問が浮かんでくる。
「……ッ! ああ! もうっ!」
 ぼくは、机の上にペンを放り投げた。白い紙の上に、無情にもインクの染みが散らばっていく。
 ここのところ特に、ぼくの精神状態は酷い有様だった。ここ一週間は机に向かっても、本は一ページも読み進められないし、ペンを握っても一行も書けやしない。勉強も研究も何もひとつ成果が出せなかった。しばらく大学の部活動がなく、それで体を動かしていない所為だ。そうに違いない。だから色々と鬱憤でも溜まっているのだろう。
 ぼくは、鈍った身体に喝を入れるために、外へ出ることにした。


 はく息は白い。ぼくは部屋着のまま外へ出たのを、軽く後悔していた。
 とりあえずぼくは、まくっていたジャケットの袖を元に戻した。
「思ってたより、随分冷えるなあ」
 両手で自分の肩を擦り、ぼくは寒さを凌ぐ。今更、邸に戻ってコートを取りに行く気にはなれなかった。
 少し走ろうか、そう思った矢先だった。
 ドーム型の屋根が目に入った。そこは、ぼくにはあまり馴染みのない場所だった。
 白い小さなお城のように見えるのは、敷地の端にひっそりと建つ温室だ。
 あの温室は母と父の思い出の場所なのだそうだ。
 ぼくがうんと幼い頃、あの中で父はひとり、母の面影を探すように悲しみに暮れていた。ぼくはその父の姿があまりにも寂しくて悲しくて、そんな父の顔を見たくなかった所為で、温室は苦手な場所になってしまった。
 随分と長い間近寄りもしなかったのに、今日は寒さもあってか久々に入りたい気分になった。ガラス窓を覗くと、中に人の気配は感じなかった。
「……温室なんて、来るのはいつぶりだろう。」
 温室の戸を開くと、そこは別世界だった。外の冷気が全く感じられない。中は想像以上に暖かかった。
 この季節に似合わない花たちは色とりどりに咲き、オレンジは鮮やかな色をして実をすくすくと育てている。
 よく手入れの行き届いた草木は、一切の風を受けずに穏やかに葉や枝を伸ばしていた。暖かな空気に誘われた虫は、温室の中を自由に飛びまわっている。不自然に切り取られた常春が、ここにはあった。
 温室の中には、外壁と同じ真っ白な色をした古いベンチがある。
 よくそこに父は腰をかけていた。手を組んで祈るように座って、時おり目元を拭っていたのをぼくは知っている。その父の寂しげな後姿を、ぼくは悲しい気持ちで見守っていたのだ。
 その場所に座ると、ぼくにまで悲しみがやってくる。
 父と母は、ここで愛を語らったのだろうか……、ベンチは丁度ふたり分の長さだった。少し窮屈なくらいなのは、きっと肩を抱いて座る為なのだろう……。

 ここへ来る男はみな、寂しい気持ちを携えている。
 ぼくも父もそうだろう。
 ぼくは、くだらない嫉妬心で勝手に寂しがっているだけだ。母を亡くした父と比べるなど呆れてしまうくらい、ぼくの悩みは贅沢なんだ。
 それでも、今のぼくにとって重要な問題だった。この事が世界にとってどんなにちっぽけな出来事であっても、ぼくの心の宇宙は乱れている。
 ディオ、君をまるごと全部、君の全てを手にしたい。……いや、したかった。
 ぼくは、深くため息をついて、ベンチに座ったまま目を閉じた。


 ぼくは眠っていない。意識があると自覚している。だが、ぼくの瞼は重かった。手足も地に鎖で繋がれてしまったかのように動かせない。声も出なかった。
 静かにぼくは鼻から息を吸った。花の香りが胸いっぱいに広がる。むせかえりそうだ。
「…………ッ!?」
 沼の底に沈んでいたようなどろっとした意識が、急に浮上してきて、ぼくはかっと目を見開いた。
 指先に痛みを感じたのだ。ぼくは痛みのある左手の指をよく観察した。
 薄紫色をした小さな花びらが、ぼくの掌からすべり落ちていく。その花びらは爪の先よりも小さくて、注意深く見ていなければ、気づけなかっただろう。
 すると、左手の人差し指の先から血が玉になって溢れてきた。
 すぐに血の玉はしずくになり、指先から流れ落ち、地面に吸い込まれていった。
 針の穴ほどのわずかな傷は、すぐに塞がり、流れた血はその一滴だけだった。
 ぼくは、不思議に思ったが、枝か何かの棘で刺したのだろうと思って、すぐに忘れてしまった。
 実際、考える時間すら無かったのだ。
 何故ならぼくはそのあと、すぐに気を失ったからだった。



top text off-line blog playroom