微笑みのみどり 4




「ああ、頭痛がする……」
 自分の声で目が覚める。ぼくは何度か目を瞬かせると、鈍く痛む頭を撫でた。
 頭の芯に鉄球を入れられたかのように重く、じくじくと頭の中が痛んだ。風邪や寝不足の時とは違った痛みだ。思わず眉間に皺が寄る。
 やけに喉が渇くし、一晩中ここに座っていたのかと思うほど尻が痛い。少し身じろいだだけで背骨もぼきぼきと音を立てる。
 まさか既に夜なのかと一瞬疑ったが、あたりは明るかった。
 ぼくは立ち上がると、ふらふらと頼りない足つきで、温室の出口へ向かう。
 扉は、軽くキイと音を立てて開かれた。
「…………え?」
 いくら英国の天気が変わりやすいと言っても、目の前に広がる光景にぼくは間抜けな声を上げるしかなかった。
 ぼくは温室から出たばかりだ。それなのに、気温の差を全く感じない。ぼくの目には、雪がちらほらと舞いそうな曇り空は無く、薄いブルーの晴れ空が広がっていた。
 これでは、春の始まりじゃあないか。今は秋の終わりだったはずなのに……。ぼくは、不思議の国にでも迷い込んでしまったんだろうか。
 ふと、さっき怪我をした指先が目に入った。小さな傷跡があった。
 指先に痛みはもう無い……。
 頭痛も、目覚めたときほどじゃあなくなっていた。
 何かがおかしい。とにかく変なことは分かる。けれど、「何が」おかしいのかが分からない。
 ぼくは、地面を踏みしめながら歩き始める。緑色の芝生がぎゅっぎゅっと鳴っている。足の裏の感覚は何時も通りだ。ぼくはそばに立っている木に触れてみた。木の表面は陽の光を浴びて、暖まっている。
 素肌に伝わるこの感覚におかしな所はないし、何もかもが本物だ。
「異常気象かな……?」
 稀に秋にも春のような季候が訪れることがある。風などの影響で、気温が急激に上昇するのだそうだ。聞いたことはあるけれど……。ぼくの違和感は気温だけじゃなかった。
 枯れた筈の木々が緑の葉をつけているのだ。いくらなんでも、これは流石に無理があるだろう。いきなり新しい葉が生えるわけがない。そんな話は聞いたことが無い。
 ぼくは、首筋に妙な汗をかいていた。

 ジョースターの領地は広い。よく子どもの頃は、近所の少年達に「ジョースター家の息子は敷地内だけで遊べ」だなんて言われたものだ。冗談や嫌味ではなく、実際子どもが遊ぶには充分なほどの土地がある。
 邸の裏にある草原には、馬車や乗馬用の馬が放し飼いにされている。
 馬以外にも牛や鶏、羊やヤギが自由に駆け回れるほど広い草地がある。家畜だけじゃなく、草原には野生のウサギやリスなどの小動物もいて、よくダニーと一緒になって追いかけたりしたものだ。
 邸から遠く離れた場所には、鶏舎と牛舎がある。歩いて行くには少し遠いので、馬に乗って行く必要がある。
 緑が一面に生い茂っている草原を見て、ぼくは暫く呆然とした。
 草木は今もぐんぐんと太陽に向かって育っている。これから冬が来るとは思えないほどに緑は生き生きとしている。この様子ではまるで夏に向かっているような瑞々しさだ。若草を美味しそうに牛や馬たちは食べているのが、ここからでも見える。
 まさかぼくが気を失っている間に冬は終わってしまったんだろうか……。知らぬ間に人間というのは冬眠が出来るようになったのか……。
 ぼくは頭を振って現実逃避をするのをやめた。
 何かの間違いでなければ、ぼくはまだ夢でも見てるんだ。ぼくはひとまず、そういうことにして、また歩き始めた。
 邸に戻る気にはなれなかった。
 これは勘、としか言いようがないのだけれど、ぼくは邸とは反対の方へ歩いていた。そうした方が良いと、足の方が頭に命じていた。
 誰かに会えば、何かが分かるのだと思うのは当たり前だったけれど、ぼくは「誰か」に会いたいんじゃあなかった。
 ぼくは……ディオを探していた。


 振り返ると、邸は大分小さくなっていた。馬に乗らずに徒歩でここまで来るのも、普段ならまず無いことだ。ぼくはジャケットを脱いで、シャツの袖をまくった。汗が額に滲んでいる。暖かいというよりか、暑いくらいだ。
 整備された道は小高い丘の上にあって、草原を見下ろす形になる。傾斜の草原に腰をおろして、ぼくは一休みした。
 今居るところから東には、緑の地平線が広がっている。西には森が見える。森はさほど大きくはないけれど、鹿が住んでいて、他にも様々な小さな動物がいて、木の実や果物もたくさん生っている。
 ディオがやってくる前まで、ぼくはひとりで……いや、ダニーとふたりで、草原や森で遊んでいた。学校に通うようになってからは、あまり敷地内で遊ばなくなっていった。
 しかし、こうして見ると自然というものは、変わらないものなのだな。
「変わらない……というか、なんだか、昔のようにも見えるな……。」
 そうだ、一番ここを駆け回っていたあの時とまるで同じだ。ぼくが、まだ十いくつかの年の頃だ。
 ふと目についた牛舎の屋根の色が気になった。「……あんな色だったっけ?」
 ぼくは目を凝らした。
 三年ほど前、屋根の一部が大風で飛ばされて、それで一部分をありあわせの材料で直したのだ。元と同じようなグリーンの屋根にしたのだけれど、そこだけが真新しくて、変に目立ってしまったのだ。
 だけど、それが無い。
 三年経っても、そこだけがやけにきれいだった。見間違える筈なんて無い。
 ぼくは、更にじっと牛舎の屋根を見た。目を擦って、もう一度見る。頭を振ってもう一度。
 何度見返しても、屋根の色は同一だ。おかしなところ、変なところがない。
 いいや、変なところがないのが、おかしいんだ。
 ぼくは、「まさか」の確信が持てずにいた。
 答えを知るのが、恐ろしくもあった。
 だけど、答えは自らやってきてしまったんだ。


 ぼくが、あのきらきらした一等輝きを放っている、黄金色を見逃すわけがなかった。
 嫌でも目に入ってきて、ぼくの視線を奪っていく金髪を。
 さらさらと風に揺れている、軽やかな金色の髪の主は、ゆっくりとこちらへ向かっていた。
 ぼくは思わず息を飲んだ。
 まさか、そんな……。
「ディオ……ッ!」
 桃色の頬が、年よりもずっと幼く見えている。
 周囲のことなど気にも留めず、手にした本を夢中になって読んで歩いている。小さな花のつぼみのような唇に指をあてて、何かをぶつぶつ呟いている。ここからではディオの独り言は聞き取れなかった。
 あれは……、そうだ、十五才のディオだ。
 ぼくは驚きと感動で、息が荒くなっていた。動悸もしている。
 咄嗟に身を隠してしまったけれど、このままではディオは通り過ぎて行ってしまう。
 ぼくは、ぼくは……、どうしたらいいんだろうか。ぼくが胸を押さえて、鼓動の速さを感じて慌てている間、ディオは目と鼻の先、すぐそばまで来ていた。
 ディオは急にぴたっと立ち止まると、きょろきょろとあたりを見回し、誰もいないことを確認すると、傍らにあった大木の下に座り込んだ。
 そうして、また本に目線を戻したのだった。
 気づかれないように、こっそりと覗き見たディオの顔つきは、やけにリラックスして、穏やかな瞳だった。
 ぼくが知る限りの十五才のディオは、いつもぼくに対抗して燃えるようなきつい目をしていて、常に本心を隠している子だった。そんな、安らいだ顔なんて見たこと無かった。
「一人でいるのが、好きだったのかな……」
 取り巻きの少年たちといる時だって、あんな表情はしていなかったと思う。
 ぼくの頭の片隅に居付いている悪魔は、あの問題について囁き始める。
 十五のディオは、まだ清らかなのだろうか?
 ぼくがおかしなくらいに、あのことについて悩んで考えているから、こんな夢を見ているんだろうか。ぼくにとって都合のいい夢を。
 だとしたら、もしも今起きていることがぼくの願望の現われだとするなら、きっとディオは……。
 隠れていることが、ぼくは馬鹿馬鹿しくなった。夢の中でだけでも、ぼくは望みを叶えるべきだ。
 そうすることで、ぼくは本当にあの問題を忘れることが出来るんじゃあないか。
 伏せていた身を起こして、ぼくは服についた草や葉を手で払い落とした。
 ディオは集中すると本当に本の世界に没頭するらしく、ぼくの気配を察することはなかった。
 隠れる気のなくなったぼくは堂々と正面から向かった。一歩一歩、近づくたびに、緊張が高まっていく。喉はカラカラだ。
 ふっと、ディオの頭にぼくの影が差し込んだ。目の前が暗くなったことに気づいて、ディオが顔を上げる。
 一瞬、身をぎくりとさせたあと、ディオはいつもの強気な釣り上がった目つきになり、声を荒げて言った。
「……きさま、何者だ!? ここで何をしているっ! ここはジョースター家の敷地だぞ!」
「ああ、勿論知ってるよ。」
 都合のいい夢ならば、もしかしたらぼくをジョジョだと認識してくれるんじゃあないかと、期待していた。けど、ディオはぼくが分からないみたいだし、警戒心をむき出しにしている。努めて冷静に答えたが、内心ではどうしようかとぼくはかなり困っていた。
 不審人物だとディオは判断したらしく、立ち上がると、彼の足は邸に向いていた。
「あっ! ちょっと……ッ! 待って!!」
 このままでは悪い展開しか予想がつかなかった。ぼくは何とかしてディオをここで食い止めなくてはならなかった。
「あ゛ッ!! 痛ッ!」
 何も持っていないほうのディオの腕を引っ張ると、ぐんとディオの体が後ろに倒れて、ぼくはその体を抱きとめていた。
 ――うわ、小さい!
 一言、正直な感想だった。
 ぼくは既に成長しきって一九五センチも身長があるのだから、まだ上背が育っていない少年のディオを小さいと思うのは仕方ないことだった。
 ディオの金髪の頭がぼくの胸より下にある。年並みに鍛えられているし、よく肉もついているのに、肩も胸も平べったくて、腰もずっと細い……。どこもかしこも小さい!
「なっ! 何をするっ! 離しやがれッ! このォ!」
 ディオはぼくの腕を引っかいて、噛み付く勢いで暴れまわった。
「ハハハ、痛くも痒くもないよ」
 薄い肩を掴んで、そのままぼくはディオの脇の下に手を入れた。
「なっ! 何をっ! うわッ!? 下ろせぇ!」
 ディオの手から本が滑り落ちて、どさっと地面に落とされた。辞書のような分厚い本だった。
 同い年のディオですら、ぼくは片手で持ち上げることが出来るけれど、十五才のディオはそれよりももっともっと軽やかだった。抱きかかえながら、ディオの体を反転させて、ぼくはいとも容易くこちらを向かせた。
「きさまッ! クソッ! 離せッ! 離せったら! 下ろせよッ!!」
 足を振り回して、ディオはぼくを蹴ったり殴ったりして、ぎゃあぎゃあと喚いた。ぼくにとっては子猫が手の中で嫌がっているくらいの衝撃しかなくて、ぼくの太い腕はびくともしなかった。
「う〜〜〜〜ッ! なんなんだぁ!?」
 興奮して肩で息をするディオを見て、ぼくは不味い気配を感じた。このままだと、ディオが泣いてしまう。
「ご、ごめんよ、突然。ぼくは、その……ええと、」
 嘘を吐いても仕様がないし、ぼくはありのままを正直に告げた。
「ぼくは、ジョナサン。ジョナサン・ジョースターだ。」
 名前を聞いたディオは、はっとしてぼくの顔を見た。が、またすぐに怒り出した。
「ふ、ふざけやがってーーーーーー〜〜〜ッッ!!!!」
 ディオは思い切り頭を振り、ぼくに頭突きを食らわしたのだった。
「うぐっ!」
 ぼくは若干油断していた。不意をつかれた攻撃に脳がぐわんとぐらついて、足をもつれさせてしまった。
「あっ、うわっ! あぁッ!」
「くっ! ぐわあ!」
 ぼくはディオを守るようにして胸の中に入れると、しっかりと両腕でディオの頭と身を抱きしめて倒れこんだ。そして、坂になっている草原を転げ落ちていってしまった。
「っう……大丈夫かい?」
 ぼく自身は受け身をとったのと、草がクッションになっていたおかげでほとんどダメージはなかった。そっと腕を広げて、ぼくの体の上に乗っかっているディオを窺った。
「う……、痛……っ」
「痛い? ディオ、どこか怪我でもしたのかい?」
「おまえの腕が痛い!」
 落としてしまわないように強く抱きしめていたぼくの腕を叩いて、ディオは身じろいだ。
「怪我は、していないのかい?」
「してないッ! いいから離せッ!」
 ぼくは心底ほっとして、腕の力を緩めた。
 ディオは、相変わらず不審がってぼくをじろじろ見ていたけれど、腕の中から抜け出ていかなかった。あれだけ抵抗していたのに、どうしてかディオは逃げ出さなかった。
「ああ、良かった……」
 ぼくは笑ってディオの髪をひと撫でして、転げ落ちた際に髪についた草を取ってやった。
 ぼくの笑顔を間近で見たディオは、むっとして唇を尖らせていた。
「何なんだ、おまえは一体。誰なんだ。どうしてぼくの名前を知ってる!?」
 そう言われてしまうと、ぼくも困る。ぼくだってどう答えたら正解なのか、分からないのだから。
「そうだなァ……、ええと、……ぼくはね、ディオ、君を好きな人間だよ。それだけさ。」
 正体を告げたところで、実際ここには、本物のジョナサン・ジョースターがいるのだから、ふざけていると怒られて当然なんだろう。
 だったら、素直に自分の気持ちを伝えるしかない。
「……は、あ?」
 呆れるだろう、と思っていた。確かにディオは口先の言葉ではあきれ返っていたが、肌色は懐かしい反応を見せてくれていた。
「す、好き、だと!?」
「うん」
「誰が!?」
「ぼくは君が好きだよ」
「〜〜〜〜〜〜ッ!?」
 始めにディオの耳に血の気が集まって、徐々に頬から鼻先までがピンク色になっていく。やがて、肌全体が良く熟したトマト並みに真っ赤に染まっていった。ぼくはディオのその変化を黙って見届けていた。ぼくの唇は弧を描いていく。
「ディオ? 好きだよ……」
 そっと背中に手を回して、ぐっと身を引き寄せ、近づいた頬に唇を寄せて言うと、ディオは打ち上げられた魚のごとく、口をパクパクするしかこと出来なくなっていた。何か言おうとはしているのだろう、言葉が喉から出てこないようだ。
「好きだよ、ディオ」
 ちゅっと、リップ音を立てて頬やまぶたの際にキスをすると、ディオの瞳には涙が溢れていた。
「ぼくはね、君を愛すためだけに居るんだ」
「う、あッ、……ううっ」
「好きだよ、ディオ。大好き。」
「や、う……っ」
 子どもっぽいキスを繰り返していくうちに、ついにディオは泣き始めた。自分でも驚いているのか、何度も手の甲で拭っては止まらない涙をおさえていた。

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