Surreal Marginal 2
とても幸せな子どもだった。両親の仲は睦まじく、恵まれた環境に、何一つ不自由のない生活だった。
頼りになる父はよく息子を褒め、優しい母はいつも笑顔だった。
子どもは父母を心から愛していて、尊敬していた。
そんな子どもの人生は、弟が生まれてから一変する。
母の死をきっかけに、いつでも家庭にあった微笑みの灯りは消え、父は見る間に憔悴していった。それでも父は子ども達を懸命に育て、よく働いた。けれど、父には心からの笑顔は戻らなかった。悲しげに曇らせた顔で、力なく目元を緩ませる。そんな印象の父であった。
子どもは――瀬人は、母親と同じように笑うように努めた。やさしい笑顔を父と弟に向け、母の代わりに家庭に明るさを齎したかった。母譲りの思いやりの深さと、父の責任感の強さを受け継いだ瀬人の性格、それ故の行動だった。
物心のつかない弟は、兄の笑顔をよく記憶していた。弟が赤ん坊の頃に、瀬人はたくさん笑いかけてやったので、とてもよく笑う子になってくれた。それは兄にとっての救いとなった。
あんなにも強くてたくましかった父の腕が、ぞっとするほど細くなっていたのを、瀬人は最期まで誰にも言えないままだった。決して、子ども達に弱音を吐かず、父は最後まで素晴らしい人間として生き抜いた。しかし、その別れはあまりにも突然で、幼い子どもたちには、どうすることもできなかった。生まれて初めて瀬人は、自分の無力さを嘆いたのだった。
心底愛していた人を、失った時。
人間は容易く壊れるものだと悟った。
なら、人を簡単に愛してはいけないのだろうか。
人に、心を託してはいけない。
一度でも奪われてしまえば、取り戻すのは苦労する。
当時を瀬人はそのように覚えている。
「どうせ、ガキには分かんねえだからよ」
「うまく言いくるめたら、あとは知らんぷりでもしてればいいさ」
大人が思っているほど、子どもは馬鹿でも愚かでもない。瀬人は周囲の人間をよく観察し、見極める力を蓄えていった。
しかし、今まで自分達を守ってくれていた人は居ない。
力のない人間は、ただただ搾取されるだけだ。
力とは、何だ。腕力や、身体の強さ、目に見える価値も必要だった。
力とは、知識だ。学校が教えてくれる科目だけが学びではない。世の中の仕組みや、人間の古くからの知恵、時には罪悪すらも味方になる。
虐げられ、嬲られ、地面を這いつくばって、それでも生にしがみついて、瀬人は一つの物事から百を得ようと躍起になった。執念の根性が芽生えたのは、その年頃だったろう。
おおよそ、十の顔つきには相応しくない影を携えて、海馬家の門を叩いた時分。
まだその頃の瀬人には、繋いだ手のぬくもりがあったのだ。
子どもの瀬人には、世界にとって正しいとされる愛情が、確かに存在していた。
「やあ、よく来てくれたね。瀬人くん、モクバくん。もう何も恐れることは無いよ。温かな食事、清潔な暮らし、それに最上級の教育を君たちに授けよう。必ずや私の期待に応えてくれると……信じているよ」
新たな父となる男――海馬剛三郎は、贅沢な邸の門扉でにこやかに挨拶を述べた。
初対面時に比べると、剛三郎の対応は幾分穏やかであった。瀬人は、ほんの少しだけ安心していた。やっと弟に不自由させることがないとなると、父の死後ずっと張りつめていた気を緩めた。
はじめこそ、剛三郎は優しく、不気味なほどに兄弟に甘く接していた。欲しい物はすぐに買い与えられ、あらゆる身の回りの世話は使用人たちがみてくれる。
ふたりが通うことになった学校でも周囲の人々は、教師も生徒も皆親切であった。――後に彼らの優しさは全て海馬の根回しの結果だと知り、瀬人は人間不信がちになるのだった。――
しかし、平穏な生活は一時的なものであった。
海馬家での暮らしに馴染み始めた頃。
学校の定期テストが終了し、答案が返された。元より、勉学に励んでいた瀬人は、ほとんどの科目が満点であった。
たったひとつ教科において、漢字の間違いでミスをしてしまったが、答え自体は正解だった。これならきっと大丈夫だろうと、帰宅した瀬人は自信を持って養父に答案用紙を渡した。
「瀬人、人はどうして間違いを犯してしまうのか、何故だか分かるか?」
「答えは合っています。漢字を間違えたのは、……」
「言い訳はいい!」
書斎机を叩いた剛三郎は、それまでの他人に接する「海馬社長」としての面を外し、本性を現し始めていた。
たった一つの過ちを目敏く見つけ出すと、答案用紙を絨毯に落として、瀬人を追い詰めはじめた。
瀬人の膝が震え出す。窓のカーテンも、部屋のドアも、全てが閉じられていて一切の逃げ場が無かった。
「私はね、常に完璧を求めているんだ。欠陥品は、要らないんだよ」
「お……お義父さん……」
剛三郎は引き出しを開けると、黒革の鈍い光を放つ鞭を取り出した。よく使いこまれていて、握りは男の手に馴染んでいた。
「海馬の名を貶める真似をするのなら、その分、お前は対価を払わなくてはならない」
男は柄を握り、先端部の皮のチップを片手で打ち鳴らしている。ゆっくりと瀬人の立っている場所まで歩み出す。
「後ろを向いて、壁に手をつくんだ」
「ボクは……嫌です……。だって、テストは」
「そうか。ならば、代わりに弟に償ってもらおうか?」
モクバの名前を出された途端に、瀬人は意思を凍らせた。それだけは、許されない。たとえ、相手が刃向えない養父であろうとも、絶対に瀬人は守りきらねばならなかった。
全力で首を横に振り、瀬人はのろのろと壁際へ顔を向ける。
なるべく時間を稼いで手を伸ばしたが、養父の無言の圧力に負けてしまう。
壁に手をつき背を見せると、まず軽く服の上から一発打たれた。耐えられる痛みであると分かると、瀬人の緊張はわずかにほぐれた。
「背中を出せ、瀬人」
命じられると、瀬人は心を殺して従った。精神と肉体を切り離せば、何も感じなくて済むと思ったのだ。
「そうだ。素直に言うことを聞けばいい。お前は頭が良いから飲み込みも早いな」
白い背中を出すと、剛三郎は容赦なく子供の体に鞭を振り下ろした。
「……ッぐ!」
背の真ん中に、一本の赤い筋が出来上がった。すぐに腫れ、皮膚内部に浅黒い血が滲む。
「ククク……幼子に折檻したのは私も初めてだよ。そうか、こんな加減で傷がつくのか……成程」
剛三郎は独りごちて、笑いながら二度目の鞭を振った。
「……ぁぐっ!」
漏らすまいとしていた声が上がると、背後では愉しげな養父の笑い声がして、瀬人は壁紙に爪を立てた。
「なんと心地よい悲鳴だ……いいぞ。女の嬌声とは違った趣がある」
話ながら剛三郎は、二度三度と鞭を振るった。その度に瀬人は押し殺している声を無様に上げてしまい、悔しさで涙がこみあげてきた。断じて、痛苦で浮かべているのではないと、自らに言い聞かせながら瀬人は堪えていた。
鞭痕で背の全面が赤く染まり上がる頃、ようやく解放された。絨毯には瀬人の汗が染みとなって、いくつかの模様を描いている。
「お義父さんは……ボクが……嫌い……なんですか?」
その場に座り込んだ瀬人は、そう呟いて尋ねた。鞭にこびりついた血を手入れ布で拭き取りながら、剛三郎は瀬人に笑いかけていた。
「いいや。私は、私なりにお前を愛しているよ。この行いは、愛だ。そう、類い稀なる愛情の証だよ」
言われて瀬人は、愕然とした。何と迷いなく朗々と話すのだろうと目を剥いた。真っ直ぐに瀬人を見ている剛三郎は続けて言い聞かせる。
「動物……たとえば、馬だ。ひとを乗せて走る馬を浮かべてご覧。乗った者は、早く走れと馬に鞭を打つだろう? それと同じことだ。私はもっともっと瀬人に頑張って欲しいから、お前をこうして励ましているんだよ。わかるね?」
「でも……お義父さん、ボクは人間で、言葉が分かるのに」
瀬人は服を下ろそうとして、シャツが傷にあたった瞬間に、顔を顰めた。あまりの痛みに服が戻せなかった。
「言葉よりもっと伝わるだろう? ……私の愛の熱が、この鞭から」
剛三郎は恍惚として語るのだった。彼もまた、父からそうされてきたということを。そして父の父も、同じであったということ。
そして、それが唯一の愛情表現であることを、誇らしげに瀬人に聞かせる。
自分は正しく、自分達の方法こそが至高だと、瀬人にも教えているのだ。
「さあ、瀬人。お前には、とっておきのプレゼントをあげよう」
剛三郎は手のひらの中に小さな箱を持っていた。紐を解き、中身を瀬人に見せてやる。
「これでようやく私の息子になれる。……お前が望んだ、海馬家の人間にな!」
鞭と同じ黒革製の太い首輪が瀬人の首に取り付けられた。
留め具には鍵がかけられ、瀬人が外せないようにさせられる。
「お、義父さん……どうして、ボクに首輪をつけるの……!?」
震える手で首輪を触り、瀬人は浅く呼吸を繰り返しながらも問いかけた。
「この首輪は犬や猫と同じ意味だよ。誰かの所有物だということ、主がいることをお前が自慢する為ものだ。首輪もまた、愛情の証のひとつなんだよ。瀬人が私の最愛の息子だという証明だ」
先ほどまで鞭を手にしていた右手が、まるで本当の父親のように優しく瀬人の頭を撫でる。痛みを与えた手が、今度は優しさを植え付けてくるのだ。瀬人は瞬きもできず、目の前の悪魔のような男を凝視し続けている。
「でも、お義父さん……お義父さん、ボクは、ボクは……」
「フフフ……ハハハ……」
瀬人は首輪を外そうと手をかけたが、引けば引くほどに首が絞めつけられて苦しくなった。顔中に汗が噴き出してきて、歯の根が合わなくなってきた。がちがちと歯が鳴り、瀬人は養父から逃れようと後ずさる。怯えきっている瀬人に、剛三郎は愉快だと笑い声を投げかけている。
やがて男の笑い声は渦となり、瀬人の身を雁字搦めにしていく、養父の呪縛が刻み込まれた瞬間だった。
「私の息子……瀬人……愛しているよ……ハハ、ハハハ、ハハハハ」
瀬人が海馬家当主となってからは、先代の気配が残るものは全て処分していた。
それでも時折、悪夢となり現れては瀬人を悩ませる。
瀬人の精神を巣食う剛三郎は、父、家族として、そして、愛情としての姿を保っている。
本当の父親の記憶は瀬人には今も在るのだ。真実の愛情を持っていた、優しく弱い父親が居る。
しかし、それを上書きするほどの強烈な愛情が、幼い瀬人の脳裏には焼き付けられてしまっていた。
傷の深さと共に、暗黒の感情は瀬人の血となり、全身を巡った。どんなに小さな傷口からでも、ひとたび悪意が入り込めば感染してしまう。それほどまでに剛三郎という毒は強大であった。
そしてウィルスに対する抗体を、瀬人は幼すぎるあまりに持ち得ていなかった。
自室の寝台で、瀬人はアテムを思い出す。
胸の中で微笑んだ姿を、頭に浮かべるとたまらなくなった。
今もまだ、この手にぬくもりは残っているようだ。
抱きしめた時の姿形を、この腕は覚えている。そのような思いは、至って健全な青少年と同様であった。普通の男性であるなら、通常の観念ならば、焦がれる相手に対して大事にしたいと思いを抱くものだろう。
しかし、瀬人は違っていた。
思いが深まり強くなるほどに、乱暴にしたいという欲が湧く。加虐欲の自覚はごく最近のことで、誰にも言えずにいる。
もし告白をするとしたならば、その思いを向けるたったひとりの相手。アテムにしか、言えないだろう。
アテムだけに、解って貰えれば良いとさえ思う。
だからこそ、瀬人は言えずにいた。
拒まれたら、二度と誰にも心は開けないだろう。そのつもりも無くなる。――そもそも、アテム以外の誰かに打ち明ける意味も見出せない。――
困辱で赤面したアテムが、また見てみたくなっていた。激しい気性の王者とは真逆の顔を打ってみたいのだ。
途端に背筋がぞくりとした。願望を頭に思い描いただけで、瀬人は動悸がしてきた。
「はあ……」
やがてその高揚感は、精神と肉体の線を繋ぎ合わせ、熱情を呼び起こしていく。
今までただの生理現象として扱ってきた肉体の変化が、はじめて欲情の証拠として現れてきたのだ。
瀬人は、がっくりと落胆しながらも、心のどこかで納得しかけていたのだった。
「これが、愛情と言うのか……?」
冴えた思考の奥底で、ある男が頷き瀬人を後押しするように「そうだ」と答える。
ボトムの前をくつろげて、瀬人は硬くなる欲棒をきつく握った。
脳内では、肌を濡らしたアテムが瀬人に哀願している。
嫌だ。ダメだ。お願い。彼は涙ながらに唇を震わせている。そんな無垢な肌を残酷に痛めつけ、悲鳴を聞くと、更に瀬人は快感を暴走させていく。
力でねじ伏せ、抵抗のできなくなった体を、じわじわと虐めぬけば、やがて屈服したように
――ああ、その顔が見たかったんだ。
前髪を掴みあげ、絶望に染まる顔に目がけて、瀬人は射出する。
白の飛沫は赤茶に焼けた肌によく映え、汚辱に相応しい色合いとなった。
「は……っ、あ」
出し切ってしまえば、急激に現実に引き戻された。
手の中にどろりとした精液があり、いくらか溜め込んでいた為に白濁の色は濃く、どっぷりとした重みがあった。
「ざまあみろ……」
事が終われば、罪悪感だけが瀬人に伸し掛かってきて、うんざりしながら、後始末のために起き上がるのだった。