Surreal Marginal 5
第三章 錠前 〜ヒズ・クローゼット〜
現世から持ち込んでいた消炎効果のある塗り薬を、瀬人はアテムの臀部に擦りこんでやっている。
「ン……、冷た……い!」
「薬は置いていく。痛みが治まるまで、患部によく塗っておけ」
軟膏の入ったケースを渡してやりつつ、瀬人は片手で尻朶に薬をしっかりと塗り広げていく。
「はぅ……」
「この程度なら痕も大して残らないな。二三日で完治するだろう」
指の腹が臀部の隅々にまで触れ、薬を薄く伸ばしていく。柔らかな肉は、軽く押しただけで指先が沈み込む柔軟さを持つ。今の手からは叩かれることがないと身体が感知すれば、肉は元の柔らかさを取り戻していく。
「そう……んっ、なのか……?」
塗られた箇所から、肌はすうっとして冷たい感覚がしていった。同時に、アテムの胸の内にも冷えた思いが吹き抜けていく。
この痛みが消えてしまうのが、無性に寂しい。点されたばかりの火をいつまでも腹に宿していたいのに、もうその僅かな熱すら奪われてしまう。瀬人から与えられるのに、瀬人によりかき消されてしまうのだ。
「物足りない、とでも言いたげだな」
頬杖をついた瀬人がアテムの顔を覗き込むようにして、寝台の上に横になっていた。
アテムは返事も出来ず、口を結んで視線をそらした。
「傷がついてしまっては、互いに遊べないだろう」
「遊ぶ? これは海馬にとってはゲームなのか?」
「さあな。だが、ゲームなら余計に生半可な気持ちでは行えないぞ。オレ達なら尚更」
「ん……、そうだな」
“オレ達”と言われ、アテムは安堵していた。この遊びは、ゲームは独り善がりではないのだ。
――オレと海馬、二人でしているんだ。
実感の重責が、体の底に降りてくる。
「海馬。オレは簡単には、壊れたりしないぜ」
振り返り、アテムは横に寝ている瀬人に対して告げた。服をきちんと着こんでいる瀬人には、情欲の気配は微塵も感じられない。
「壊すものか……」
首を傾けた瀬人は伏し目がちになり、アテムの頬に唇を寄せた。
「貴様はオレのために在るんだ……オレのためだけに」
口吻までに至らない戯れが繰り返され、アテムはゆっくりと瞬きをした。
いっそ、“オレのものだ”と強く宣言をされたなら、納得がいったかもしれない。
選択を委ねられている。
瀬人の言葉からはそんな思いを感じ取り、アテムは渡された自由さえも憎らしくて、うまく気持ちを伝えられなかった。
数日の時が、二人の間に置かれた。
瀬人は現世で、アテムは冥界で、それぞれの責務を果たす。互いの仕事には干渉し合わないのが暗黙の了解だった。
トップに立つ人間は、それぞれの場所を尊重しあうからこそ、理解が深まる。アテムにとって瀬人の社長としての立場も、瀬人にとってのアテムの王としての立場も、おそらく両者には無関係だ。
アテムは瀬人に対して経営者としての顔を求めはしないし、瀬人もまたアテムを君主として見ている訳でもないからだ。
ただひとりの
それもまた表面上としての関係になりつつあるのだろう。
誰も知らない、誰にも知られることが無い隠された夜宴の舞台が密やかに開幕しようとしている。
男が世界に降り立つと、夜の帳が下りてきた。王宮では、豪奢な宴が毎晩開かれているらしい。この国の危機は今や無いものとされている。――死人の国に戦争は起こり得ない。穏やかな暮らしが約束されている。
少年王は、きっと退屈している時分だろう。注がれる酒もそこそこにして、目の前の舞にも、傍らの美女にも目もくれやしない。
瀬人は、あたかも光景を目の当たりにしているかのように思い浮かべて苦笑していた。
手に取るようにわかる。
何故なら、一見するとアテムと自分は正反対でいても、しかし深部では全く同じ性質を持っているからだ、と瀬人は分析しているのだった。
王宮の裏へ回ると、瀬人は通い慣れた入口に着いた。外壁に遠目からでは気づけないような戸がある。
階段も梯子も無い中途半端な位置に、人ひとり分の身幅の通路口あるのだ。外壁にはばらばらに設置された取っ手や足場が数か所あり、それらを上手く組み合わせて登ると入口に辿り着ける仕掛けとなっている。
その入り口から、寝所までは一本道であった。
誰がその仕掛けと入口を作らせたかは瀬人が知る由もないが、大方正面から逢いに行けない人物が使うものなのだろう。もしくは、間者の抜け道か。
寝所の出入り口に着くと、瀬人は背負っていた荷物を下ろし中身を確かめた。
喉がくっと持ち上がって、低い声が漏れた。自然と笑みが零れたのだ。
寝台の枕元には、以前置いていった薬の小瓶が転がっていた。拾い上げて蓋をとってみると、軟膏はほとんど無くなっていた。あれから瀬人の言いつけを守って、きちんと薬を塗っていたのだろう。
「フ……口先では文句を垂れるくせにな。つくづくすなおな奴だ」
装備品を外し、身軽になった体を寝台に寝そべらせ、手にした薬瓶を手の中でいとおしげに転がした。
耳を澄ませば、多くの人間の楽しそうな声が聞こえてくる。広間ではまだ賑やかな宴会が繰り広げられているのが、人々の会話や音楽から窺い知れた。
「そろそろ、こっそり宴を抜け出して、外の空気を吸いに来る頃だろう……」
瀬人の読みは外れない。経験から得た情報を記憶し、寸分の狂いなく計算する。ひとつ、読めないとしたならアテムとの決闘だ。何度行っても思い通りにはいかないのだ。
それが楽しかった。今も楽しいと思えるのは、それだけだ。
やがて微かな衣擦れと、金細工の飾りが独特の硬質な音を立てる。
大股で歩いてくる足音は、隠そうともしない不機嫌さがまとわりついている。
「……はあ……」
ため息を零しながら、アテムは自身の寝所へ辿り着いた。酒気帯びた息が漂って、うんざりした。
「ご機嫌斜めなようだな」
瀬人は半身を起こして、アテムを出迎えていた。声を耳にしたアテムはすばやく顔を上げる。薄暗がりの中、男の姿を目に宿してその場に立ち尽くしていた。
「か、海馬……! 驚いたな。貴様の来訪はいつも急だ。ほんと驚かせられっぱなしだぜ」
「ふん、貴様は嘘が下手なようだ」
アテムは頬を引きつらせた。兵士たちのほとんどが宴に参加していて、まともに仕事をしている者は少ない。
急激に体温が上がる。アテムは磔にされたかのように動けない足を何とかしたくて、腿を摩った。
「貴様はオレを待っていたんだ。驚いたなどと、嘘を言いおって。分かっていたんだろう?」
「海馬、まだ早い……。先の深い、時間じゃなきゃ」
寝所は密室にはならない。音も声も、外に聞こえてしまうかもしれない。
広間の音楽は、寝所にも響いている。せめて王宮が眠りにつくまで、夜戯は待ってほしかった。
「どうせ広間の連中は酔っていて、聞こえやしない。それに周りが煩いほうが貴様には都合がいいんじゃないか?」
瀬人は靴を脱ぎ、寝台に全身を乗り上げて、アテムが夜の気配に呑まれるのを期待している。蜘蛛の巣に捕らわれる蝶を誘う毒虫の気分で、アテムの全身をじっとりと眺めていた。
「外套を取って、ここへ来るんだ」
ここへ、と言い瀬人は敷布を指した。広い寝台は上背のある瀬人が手足を伸ばしても、余りある。
命じられるとアテムは下唇を噛みしめながら、首を下方へ傾ける。首元に巻いた外套を握っている。
ややあって諦めたかのように外套を取り、床に落としていった。
布が石床へと落ちる微かな音こそが 主従の始まりを告げる合図となるのだった。
「パズルも取るぞ」
首から下げている千年錐を外され、どんどんと身を守るものが減らされていく。肌を晒す行為自体にそこまで抵抗は無いが、ひとりきりで裸体となるのは、アテムは無性に嫌だった。
「首の飾りは、どうなっているんだ?」
瀬人の指先がアテムの首筋をなぞった。飾りの上から触れられただけでも、アテムの全身はぞくぞくと粟立ててしまう。
「後ろで留めてあるんだ。ここ」
頭を下にして、襟足を持ち上げて見せる。瀬人は留め具を見つけると、器用にするりと首飾りを外してしまった。
金細工は見た目よりも軽く、繊細に作られていた。王が身に着けるものなのだ。国一番の職人に作らせたに違いない。
「貴様にはもっと似合いのアクセサリーをやろう」
背後に置いていた小箱を、瀬人はアテムに渡してやった。包み紙もリボンもない、質素な箱だった。恐る恐る蓋を取り、アテムは中身を取り出した。
見覚えのある黒革が視界に飛び込んできた。
鈍い光を放つ箱の中身に、アテムは懐かしさすら感じられた。
アテムは手に取って感触を確かめた。本革の首輪だ。
「海馬、これって」
「オレがつけてやろう」
シンプルな造形の黒革の首輪は、アテムが遊戯としていた頃に好んでつけていたものに似ていた。留め金具は冴えた銀色である。瀬人はアテムの手から首輪を受け取ると、すぐに首に回した。アテムの首裏に革特有ののひやりとした肌触りがした。上質なのだろう、皮膚にあたっても擦れる痛みは無い。
長さを調節するために、瀬人は帯を絞めていく。首は細い。留め具の小穴がひとつ、ふたつと過ぎていく。
きつめに絞めてやっても、アテムはどこか心地よさそうに瞼を閉じるのだった。
「どうだ?」
「不思議としっくりくるな。それに懐かしい感じがするぜ」
「気に入ったか」
「ああ」
しかし、それだけでは終わらなかった。留め具の部分には鍵穴がついていた。瀬人はボトムのポケットから錠に合う鍵を取り出す。そして有無を言わさず、鍵穴に差し込んだ。
「え、海馬……?」
カチリ、と施錠された音がした。小さな鍵には、ネックレス状のチェーンがついていた。瀬人は鍵を首から下げると、服の中に大事そうに仕舞いこむ。
「これでもう、貴様の意思で首輪は外せなくなった」
「どうして、そんなこと」
瀬人の思惑が掴めず、アテムは首筋を撫でた。留め具の部分にかけられた錠は、どうあがいても指では外せない。
指で引いても無情に金属がぶつかりあう、カチ、カチという音が鳴るだけだ。
「貴様の意識をより高めるためだ。首輪を認識する度、貴様はオレを思い出すんだ」
「終わったら、外してくれるんだろ……?」
アテムは施錠した行いを遊びの延長だと思い、訊いた。
他の誰かに見られては困る。現代の遊戯であったなら、他者に配慮する必要は無かったが、この世界ではあり得ないものだ。他の神官や召使いは、怪訝な顔をするだろう。咎めるだろう。
そして何より、王である御身が、他者の隷従であると知られてはならないのだ。アテムひとりの問題ではなくなってしまう。
「見られなければ、さしたる問題でもないだろう? あの外套を首に巻けば隠れる。そうして凌げばいい」
「海馬! オレは本気で……!」
「オレだって真剣だ」
怒りをぶつけようとした拳を止め、瀬人は間近でアテムと睨みあった。
アテムの唇は戦慄いている。怒りか恐れか、両方か。次の言葉を紡ぎだせない苛立ちなのかもしれない。
「鍵ならオレの首にかかっている。今すぐ取りたいと言うなら、殺す気で奪ってみせろ」
「馬鹿言うんじゃないぜ……」
拳は力を失くし、アテムは項垂れてしまっていた。
「鍵なんて……つけなくたって、オレは、海馬の首輪を外そうなんて思わない」
「今し方の発言と矛盾しているではないか」
「鍵をつけた時点で、海馬はオレを裏切ってるんだ」
「裏切るだと?」
「オレのこと信じてないんだ。だから鍵なんかつけて、その鍵を自分が持つことで安心しようとしている。海馬が一番に信用しているのは、自分自身なんだ」
アテムは留め具の部分を触り、鍵と首輪のリングをカチカチと鳴らし続けている。憤りを煽るかのような仕草に、瀬人は眉根を顰める。
「アテム、貴様……。何が気に入らんと言うんだ!?」
首輪を弄る手を無理やり引きはがし、瀬人は敷布に押し付けるようにして、アテムの身体を倒した。
「オレに断りなく鍵なんか、つけるからだ!」
「つけなければ、外すだろうが!」
「オレは外さない! 海馬が誰にも見せるなって言うならそうする。なのに……こんな、こんな強制的に、オレを拘束して、支配したつもりになりやがって」
「それのどこが間違っていると言うんだ!」
「自分勝手なんだよ!」
言い放ったアテムの目に、薄く水膜が張っている。感情が高ぶりすぎたのか、息も荒くなっていた。
「お前は、オレの海馬への気持ちを、無視しやがったんだ……」
きつく睨みをきかせていた瞳は、次第に曇っていき、ついに影を滲ませてしまう。
瀬人の感情はそのまま体にリンクして、アテムの手首を握る手には力が込められていった。抗いはしてみせないが、身を固くさせている。動くものかと言う頑なな意志に瀬人はますます腹を立てた。
「おい、こっちを向け」
命じても、顔を反らされた。顎先を捕えてやっても良かったが、あえて瀬人はそうしなかった。
「相当機嫌が悪いようだな。子どもじみた癇癪など起こしおって」
不気味なほどに優しい手つきで、瀬人はアテムの背を抱えて、柔らかく抱きしめてやった。予想外の行動にアテムは、瀬人の腕の中で身を縮めている。
「よせよ……んっ、やめろ……!」
赤ん坊をあやすような手つきで、瀬人はアテムほ頬や額にキスをして、背中をさすってやった。いっそ打たれた方が、怒りを発散出来ただろう。アテムは身じろぐことでしか抗いの意を示せなかった。
「そんなんじゃ、ない……」
子ども扱いをされ、優しく抱かれると、喜びよりも戸惑いが優った。瀬人の本意ではない気がして、アテムは対応に困っている。
「イヤだ……! ダメ……やだっ……」
服の上から肌をまさぐられ、アテムは身をよじらせて逃げる。そのような行いは望んでいない。アテムも瀬人も、こんな形でしたくない筈だ。
「聞き分けのない奴には、体に教え込むしかないな」
途端、いつもの口ぶりに戻り、瀬人はアテムの両手を後ろにまとめ、体を反転させた。敷布にうつ伏せにさせて押し付ける。傍らに置かれていたパズルの首紐をアテムの手首に絡ませて、ひとつにして縛った。
「外せ!」
「静かにしろ。勘付かれたくないのは、貴様の方だろう」
先ほどまでの優しさは消え去り、乱暴になった手が、アテムの後頭部を押さえ付けて、脅迫めいた台詞を吐いた。
冷たく刺さる語気に、アテムは震えあがった。不快さの中に混じる、ある種の昂奮が体を反応させているのだ。
――おかしい。いつからだろう。
アテムは自問自答してみたが、正常な精神には答えは見つけられない。
闘いの中でしか得られない、交感神経の昂ぶりに酷似している。
一挙手一投足、張りつめた空気の中での攻防が、生命の存在を自身に芽生えさせる。野性に衝き動かされるのだ。
呼吸は、荒々しくなった。口を閉じても、息が洩れる。
対する瀬人は、とても落ち着いた態度で寝台から降りると、荷物を解き始めた。鞄の中から、首輪同様の黒革のかたまりを手にして振り返る。黒塊の所々にシルバーの輝きが見え隠れしていて、アテムは目を白黒とさせた。
「こんな展開もまた一興だな。好きなだけ抵抗してみせるがいい。……オレが躾けてやる」
敷布に投げられた革の塊は、何の形も成していない。その中からひとつを瀬人は取り出すと、ぴんと張らせて両手で持った。一本のベルト状の革は、つやつやとした光沢を反射させていて、アテムはこれから行われるであろう儀式に、不安と、微量の胸騒ぎを感じていた。