ジレンマ
海闇、とっても書きたい
書けばいいじゃないの…
スロースターターであり、準備に時間がかかるタイプ
こうして言い訳をブログに書き連ねるのも、準備運動なのである
湧き出てくる思いだの萌えだのは、
「はよ発散させんかいワレェ!」と私を責めては追い詰めるのに
その出力機である私の身体は
「まだじゃ……まだなんじゃ……」ともがいている
仏師 海慶先生が、
「仏が叫びだすのを待っているんです」
彫る木を前にして、そうおっしゃっていたのを思い出す(ガラスの仮面の話です)
ジョナディオの時は、どうだったか?アレカヅの時は?
更に遡れば、真幸の時は?どうだったか(それ以前も小説は書いていたけど未熟すぎるのでダメ)
明確なイメージを持っていたか?
何か話を書くときは、漠然としたままの状態と
はっきりとあらすじが決まっている状態がある
今は全然、白い靄の中にある残像を手にしては
ああじゃない、こうじゃないと、悩んでは迷っているばかりで
自分の決めたものが、全く見つかっていない
それは何故だと聞いても
「考えが及ばないからだ」と叱咤する
原作を読みこめと、アニメを見ろと、劇場版を見ろと言う
しかし、情熱やら思いやらが、溜まるばかりで、それがまた苦しい
発散、昇華をしなければ、生きていけぬのではないか?
それが出来ないので、鬱憤が募る
これは苦しい
どんなに人と話したって、分かり合ったって、知って貰ったって
自分一人で何とかせにゃイカンかった。
それが分かっただけでも良かったじゃないか。
自分の中にある思想を形出すことの爽快感はあるし、それによる脳内物質や麻薬の分泌は、依存力が高い。物ごころがついてから、その依存に頼り切って生きているのかもしれない。
それを超える快感には、あまり出会えないから、人はこういう活動をするんだろう。
創作はいいぞ、とはよく言ったものだ。
未熟すぎるからこそ、二次創作をする。
いや、二次もまた、正しい創作だってことだ。
二次創作の二次とは、二次元と、元あるものからの派生という意味がふたつある
元あるものからの派生とは
世間一般にある、創作物は、大まかに分類してしまえば、みんなそうであると思う
たとえば誰かをモデルにしたり、実在のものを題材にすることも
何かが“在って”そこから生まれるものだからだ
いわゆる同人の二次創作は、その題材をそのまま使うこと、ただそれだけの違いなんだ
それは、人の共感を得やすく、理解もしやすい
そして、ひとが多く求めているものであるから、するし
何かから影響を受けて、それをそのままの形として、発散したいと考えるのも、とても分かりやすい欲求だと思う
だって「自分が良い!」と思うものを自分なりに噛み砕いて紹介、プレゼンする行為に似ているし
たとえ、人に見せなくても(公開しなくても)
自分の中のポジティブな感情や熱量を「出す」という活動だと思うからだ
良い!好き!すばらしい!
その感情から成り立つものなのだ。
そうだ。
だから今まで好きになってきたカップリングも、ジャンルも
ひとも、キャラクターも
何もかもが
良い!好き!すばらしい!
その気持ちから生まれていたんだ
そして、その気持ちを表したくて、言いたくて、形にしたくて
そうしてきたんだ
だから今は海闇が好きだし、素敵だし、良いと思っている
その気持ちは、普通はどうしたらいいものなんだろう
自己完結してしまうのも、何だか、残る
だから書こう、となるのかもしれない
満足を目指している
与えられるだけで満足していてもいいものだし
発表している側もそれを望んでいて、しているのでは?
でも文化や人、ものや文明はそうやって、影響を与え合って、進んでいくものだろう
大げさかもしれないけど、そういうことなのだ
進む、進む
少しずつでも前へ前へ
時には過去を振り返り、時には古典を読み返し
立ち止まっては悩んで考えて
迷って喚いて苦しんで
それでも最初に貰った「好き」だという気持ちの為に
書いては泣いて、書いては楽しんで
書いては悔やんで書いては、喜んで
そうやって生きているものだ。生かされているものだ。
生きるって、それだけで前向きな力になっているんだな
楽しいことをたくさんしようね!!