キリングミーソフトリー
バタイユの生殖を伴わない性行為を小さな死(死の体験、体感)、という話、詳しくはエロティシズムを読むとして。
死と性、生と死、性と生は切っても切り離せないものである。
ある外国での男女の例として、極端に性教育を受けないままに、成長した彼らが、本能から出る性衝動を押さえきれず、男性が女性を殺してしまったケースがある。
対処の方法を知らなかったので、殺害してしまった。
それが愛なのか?それとも、性欲なのか?
術があったなら、彼はそんな行動に出なかった?
死とは究極の表現方法に価している?
たとえば、「死ぬほど好き」や、何か喜ぶ出来事に対して「死んでもいい」と、日常的にも聞かれるフレーズだ。
つまり死とは、人間の言う、最高、頂点である、それ以上が存在しないものだと言える。死の先には、何もない。あるいは、それ以上を、生きている人間は分からないから、そう表現出来るのだろう。
性行為における、絶頂を表す言葉のひとつにも「イク」があり、その語源は「逝く」とされている(諸説あるでしょうけど)
さて、そこで、私が考えることはひとつである。
海馬君の言った「オレが葬り去らなければ…」の台詞である。
これは、単に、闘って倒したかったという思いが文面から受け取れますし、それこそが彼の本意ともとれます。
他人に倒されるアテムが許せなかった、というのも頷けます。
自らの生涯の敵だと認めている人を、他者に倒されることをどうして許せようか?
絶対的強者でなければ、自分の敵である意味がないのですが、ただ強さだけがあれば良いわけでもない。性格、魂、心意気、あらゆる要素を含めた上で「好敵手」と定めていた。
そして、「オレが」「葬り」です。
倒したい、葬る
殺したい?
命を手にしたい?
逝かせたい?
それはつまり……
支配、征服…
手に入れたい
という感情があることになる?
そこからの暴論として、海馬君は、王様を抱きたい
と、イコールになる。
かなり強引に持ってきているな。
故に私は、海馬瀬人×アテム(王様)なのです。
劇場版の最後もそうであるように
海馬君が行き、(行動)
アテムが迎える(受動)となっているので、自然とそうなるのだった。
でもこの解釈は、ジョナディオに当てはまらないんだよなあ。
全く一概に言えない論なのか、それともジョナディオが私の中では異端なカップリングなのか。
行動のディオと受動のジョナサン(作者が明言している)なんだもんな。
見た目?見た目なの?散々語っておいて結局ルックス重視なのかよ!?そんなつもりは全くないんすけど。
カップリング観って、不思議なもんだよね。どうやって受け攻めを決定づけるのかって、そこを掘り下げてみると
「え……分かんないけど、気が付いたら」ってことが多くて
それもまた本能的に嗅ぎ分けて、選択しているものなのかもしれない。
理屈じゃない……!?ってか!?
うーん、考えるな、感じろ?
ブルースリーしちゃう!?
感覚的に分かるもの、なんですかねえ。
自然の摂理?他者からの影響?
萌える作品を読んだらそのカップリングにハマりましたーなんてこともあるからね。どういう目で見て、どういう考えを持つかって
結局は趣味と趣向なのかなあ。
何が好きで、何を語る?
海闇が好きな理由か……。
思考を停めずに、考えるだけ考えてみると、発見と学びがあるから面白いもんです。
とりあえずどんどん書いてみよう